コラム

第3回 苦悩の末の重大な決断

眠れない日々

リハビリによる効果が認められなくなった以上、私に残された選択肢は再手術に挑むか、それともそれをあきらめて車いすでの生活をしていくかだった。

このことについて、誰かに相談しても無駄だという気持ちがあった。
いくら相談したところで、この二択に関してどちらが正解かはわかりようがないからだ。

結局決めるのは自分自身でしかない。
そんなことを思うと、知らないうちに焦りの感情が出てきて眠れない夜が続いた。

少しでも気を紛らわすために、週末には妻の運転で緑の多い広場などに行き、当時小4だった息子と車いすのままキャッチボールをした。
私の入院中に始めた少年野球のおかげか、息子の投げ方がそれなりに様になってきているのがわかり、嬉しかった。
しかし、そんな知らないうちに成長している息子に対して、むしろ後退している自分が虚しかった。
 

「父さん、歩けるようになったらバッターもしてよ」

 
何気ない息子の言葉が胸に突き刺さる。

会社からは直接、いつ復帰できるかというようなことは一切訊かれなかった。
私への配慮だったと思うのだが、そのことが逆にプレッシャーになっていた。
休職期間をどこまで認めてもらえるのかについて、一度だけ所長に相談したことがあったが、そのときは特に気にしなくていいとの返答だった。

当時、営業所の売り上げの半分以上を私が担当していた。
その代わりを他の所員で負担させるわけにもいかず、結果的に所長自らが営業をしていた。
その事実を知る限り、私としてもいたずらにこの状況を引き延ばし続けることは良くないと思っていた。

口にこそ出さないが、周りは手術をして私の復帰を一日でも早く望んでいるはずだ。
そう思うと、また眠れなくなるのだった。

膀胱瘻の手術

リハビリ通院は退院後3か月経過していたが、ついには杖での練習も危険な状態になるまで足に力は入らなくなっていた。

また、右足を中心に日によって強烈な痺れを感じるようになった。
なんとも言葉で表現しにくいが、座禅を組んで足が痺れる感覚の数倍の強烈さだった。
ただでさえ眠れないうえに、この痺れがひどいときは一睡もできないという日もあった。

そんな状況にさらに追い打ちをかけたのが、膀胱直腸障害の悪化だった。
それまではなんとか自己導尿によって、尿を出すようにしていたのだが、ある日の夜40度を超す熱が出た。
もう、本当に死ぬかと思うほど体中が燃えるように熱くなり、意識朦朧となったのだ。

急遽、急患にかかり解熱剤でしのいだが、その後の診断で自己導尿のやり方では腎臓への負荷がかかり、いずれ腎機能に影響すると言われた。
その対処としては、おへその下あたりに穴をあけて、膀胱に管を直結して袋に尿を溜めていくという方法しかなかった。
もう二度とあの日のような思いはしたくないという気持ちだったので、すぐにそのことを受け入れ、専門の病院にて膀胱瘻の手術を受けた。

この手術は部分麻酔でしかもローリスクだったので、先の手術のことを思えば私にとっては気分的に楽だった。
ただし、自力排尿からの決別という部分においてはどことなく寂しさもあった。

 
そんな苦しい日々を過ごしているうちに、最初の手術をしてから1年が経とうとしていた。

 
いよいよ左足は全く動かない状況に追い込まれ、右足も足首がかろうじて動く程度でまた痺れの頻度もほぼ毎日になっていた。
体の状況、そして私が抜けた会社の状況など、いろいろなことを考えているうちに、そろそろどうするかの決断を下さなければいけないとの思いを強くした。

苦悩の末の重大な決断

たぶん結論はとっくに出していたのかもしれない。
今思い返せば、そう思える。

当時は心の中と向き合うことを避けていただけかもしれない。

それは、少なくとも家族や会社が期待する方向ではなかったからだと思う。

いくら考えても一度うまくいかなかった手術に挑戦する勇気はなかった。

万が一にも上半身にまで影響を及ぼすことなどを考えたら、まだ車いす生活のほうが幸せだったと後悔している自分を想像したりもした。
むしろ日々の苦悩の中心は、手術をしないという決断を周りは快く受け止めてくれるのかということだったかもしれない。
その背中を押してくれたのは妻だった。
 

「あなたの正直な気持ちで決めればいいのよ、自分の人生なんだから」

 
ある日何気なく言われたその言葉に、はっと我に返った。
会社に対しても何か気を遣い過ぎていたのかもしれない。

思い起こせば14年間、ただひたすら会社の売り上げを上げることだけを考えて営業をし、ここまで突っ走ってきた。

東京勤務となってまだ1年半というタイミングで、群馬で所長補佐役の係長が突然やめたという理由から、常務が私に助けてほしいという電話をかけてきたときは驚いた。
しかし、そこで頑張れば次の展望があるという言葉を信じ、群馬への転勤を呑んだ。
息子にとっては愛媛から出てきてやっと仲のよい友達が出来たというところへ転向させなければならず、ずいぶん可哀そうなことをしてしまったと思う。
 

それもこれも会社のため、そして自分のためだった。

 
そんな過去を振り返りながら、今まで黙ってついてきてくれた家族のために、そろそろ会社に少しだけ我がままを訊いてもらってもいいのではないかという心境に、やっと至ることができたのだ。

 
それは、グループ内で車いすでも働ける環境のある部署への転籍を希望することだった。
 

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

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