コラム

第8回 忍び寄る新たな敵

褥瘡の発見

新居浜での生活になってから、健常者のころには考えられなかった2次的な障がいが新たに起きていた。

まず膀胱直腸障害の影響で、不定期だが数か月に一度くらいの頻度で、寝ている間に便を漏らすことがあった。

便意に対しての感覚が鈍く慢性的な便秘のため、思うようにコントロールができず1週間くらいの量が一気に押し出されることもあり、汚い話だが最後の方は下痢となり、ベッドのマットを含めてたいへんな状況となる。

ただ私の場合は、そういった状況のときに妻が介護をしてくれるので何かと助かっている。

これがもし、ひとりで生活していることを想像するとぞっとする。

お尻の汚れを隈なく綺麗に拭き取ることも、マットを新しいものに差し替えて洗濯をすることも、手袋をして肛門に指を入れ中に残っている便を掻き出したりすることも、ひとりでやらなければならないと考えただけで気が遠くなってしまう。

妻を夜中に起こすことも多々あったが、部屋中に臭いが充満するなか自分の手に夫の便がついても平気な顔で対応してくれている妻の姿には、ただただ感謝しかなかった。

2010年になってからもその状況は続いたが、ある日それとは別の問題も起きた。

それは、例によってうつ伏せになって妻にお尻の汚れを拭き取ってもらっているときだった。

「お尻の右側に、なんか丸い傷があるよ」

妻がそういったが、最初はピンとこなかった。

スマホでその箇所を撮ってもらい確認したが、確かに坐骨がある辺りの皮膚に、直径1cmほどの床ずれのような傷がいつの間にかできていたのだ。

いろいろ調べてみると、それは褥瘡(じょくそう)という傷であることがわかった。

普通の人であれば、同じ姿勢で座っていて圧迫されて痛みが生じると、お尻の接地位置を自然と動かすのだが、私のように腰から下が完全に麻痺して感覚がなくなっている体だと、痛覚がないため無意識での位置ずらしを怠ってしまうのだ。

それが褥瘡ができた原因だった。

しかし、そのときはちょっとした床ずれができただけで、逆に痛みも感じないということで、褥瘡に対してそこまで危機感を抱いてはいなかった。
 

仕事を探す

それから数か月経った夏ごろに、また例によって妻にお尻の拭き取りをしてもらっていたとき、妻が「あっ」という大きい声を発した。

褥瘡の面積が倍近くに拡がっていたのだ。

さすがにこのまま放置していたらまずいということになり、リハビリの通院先で形成外科を初めて受診した。

先生からは、褥瘡を侮っていたら敗血症などのたいへんな病気につながってしまうという説明を受けた。

そのための予防として、感染を防ぐためのゲンタシンという塗り薬を処方してもらった。

そして、長時間座り過ぎないように心がけることが一番大事だと言われ、外出などの長時間座るようなときは、必ず15分おきにプッシュアップという腰を浮かせる動作をして除圧するようにとのアドバイスを受けた。

また、車いす用のエアマットを敷くこともすすめられたので、早速業者に依頼をした。

先生から言われたことを意識するだけで、効果はすぐ現れた。

1週間ほどで、褥瘡の大きさは最初に発見したときのものくらいに縮まってきたのだ。

エアマットもその後届き、これらの予防によって1か月もしないうちになんとか褥瘡は完治した。
 

そうこうしているうちに季節は秋になり、気がつくと会社を辞めてから1年半が過ぎていた。

さすがにそろそろ新しい仕事を見つけなければいけないと思い、何度かハローワークに行ってはみたが、一般求人のなかでバリアフリー環境が整っている会社がまず見当たらなかった。

また、障がい者雇用枠としての求人などはいくつかあったが、車いすの状態では難しい清掃や軽作業の職種ばかりで、職業訓練で学んだスキルを活かせるような求人はなかった。

しかし今思い返せば、本気になって仕事を探しているという感じでもなかったかもしれない。

ほんとうに働きたいから探しているというよりも、以前感じた虚しさの解消のために、ただその穴埋めとなるための居場所を探しているという感じだった。

たまに友人や知人と会って話すときに、当然勤め先での話にもなるのだが、何気ない様子のことでもずっと聞かされるのが辛かった。

以前は当たり前のように聞いていた話が、なぜか遠いもののように感じられた。
 

仕事をする、ということの意味についても何度も自問自答させられた。

前の会社で勤めていたときは、私にとって会社とは自己実現を満たすためのものだった。

生活のためという意識は全くなく、営業の世界でひたすら上を向いて働いていたに過ぎない。

これから、この体の状態でそういったモチベーションで働けるのかどうかについては全く自信がなかった。

そこに、やりがいや生きがいを見出すような前向きな気持ちは皆無に等しかった。

 

忍び寄る新たな敵

新しい仕事が見つかることもなく、気がつくと2010年も終わろうとしていた。

半ば自暴自棄になりかけていた矢先に、松山に住む親戚のMさんから突然の電話がかかってきた。

Mさんは、松山を中心に調剤薬局経営をされている薬剤師だった。

聞けば、2011年7月に今治駅から徒歩5分くらいの場所で、新しい店舗を出店するので、事務として働かないかという打診だった。

私のことについては父を通じて聞いていたようで、たまたま事務員を募集しているタイミングだったので声をかけてくれたのだ。

もし私が働く意思があるのであれば、バリアフリー環境も完備するとまで言ってくれた。

ほんとうにありがたい話だった。

新居浜から今治に毎日出勤できるのかということについてだけが少し引っかかったが、幸いマンションから新居浜駅までは、車いすでも約10分くらいで行ける距離だったので、電車を利用すればトータルで50分の通勤時間で行けることがわかった。

しばらく家族で話し合った結果、しんどいときや雨の時は妻の車で駅まで送ってもらうようにして行けばいいということになった。

ずっと霧が晴れないようなモヤモヤしていた感情が、一気に澄みわたっていく感覚を覚えた。

そして数日後には、Mさんに事務として雇ってもらえるようにお願いをした。

Mさんとしても、ちょうど事務を探していたので逆に助かるとまで言ってもらえたが、経営者が親戚という点で、何か体調に問題があったときなどでも、それなりに配慮してもらえることが何よりも心強かった。
 

年が明けてから、新店のオープンまでの半年間は既存店舗に週1回通い、研修を受ける形となった。

一般的な事務とはまた違って、処方箋料の加算業務をいろいろと一から覚えなければいけなかったが、その点は全く苦にならなかった。

習得したことがすぐ仕事に役立つことが約束されていたからだ。

日増しに自分のモチベーションがあがってきているのがわかった。
 

しかし、良いことだけでもなかった。

毎週の今治での研修で、移動も含めて長時間座ることも増えてきたので、1か月くらい経ったころ、ふと褥瘡ができていないだろうかという不安がよぎった。

年が明けてから全く状況を確認していなかったので、妻にすぐ見てもらった。

するとその不安は的中した。

最初に発見した箇所に、同じくらいの大きさの褥瘡ができてしまっていたのだ。

いつできたのかは知る由もなかったが、こまめにチェックを怠っていたことを少し後悔した。

まさに知らぬ間に忍び寄る、新たな敵だった。

 

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部  本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

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