コラム

第24回 何度でも立ち向かう精神 

嬉しい再会

「昨年と同じ左座骨部のあたりが感染を起こしていますね。同様に手術が必要となりますので、すぐに入院の手続きをしてください」

形成外科の先生からはそう言われたが、ある程度覚悟はしていたので自分でも意外なほどにあっさりと受け入れていた。

病棟も昨年と同じ3病棟となった。

指定された4人部屋の病室に向かう廊下で、すっかり顔なじみとなった看護師さんたちから少し驚かれながらも次々と声をかけられる。
苦笑いをしながら、「またお世話になります」と言うしかなかった。

これで2年連続での入院となってしまったわけだが、昨年の箇所の再発ということもあり、先生の想定では昨年と同じかそれ以上に時間がかかる可能性があると言われた。
つまり、少なく見積もっても2~3か月はかかるので、復帰は8月以降の見込みとなった。

例によって、まずは感染で壊死をしてしまった箇所を除去するための手術がすぐに行われた。

手術後はひたすら点滴を打つ日々を繰り返した。

熱は38度前後を行き来する状況だったが、不思議なもので体感上は平熱の感覚に近かった。
度重なる入院の経験のなかで、ある程度熱に対する耐性が出来てしまったのだろうかと考えたりもした。

看護師は毎日担当が入れ替わったが、そのほとんどの人が昨年と同じ顔ぶれで、ざっくばらんな会話でずいぶんと和むことができた。

そして入院して1週間くらい経ったときのことだった。

4月に入ったばかりという新人の看護師が担当となり、朝食後に挨拶に来た。

「今日担当のIです。よろしくお願いします」
そういうや否や、その新人看護師は続けて「あっ」とびっくりしたような表情で声を発した。

私は一瞬何が起こったのだろうと思ったが、よく見るとどこかで見たことのある女性だったのだ。

「三浦さん、お久しぶりです。以前、実習でお世話になったIです」
その言葉で完全に思い出すことが出来た。

約3年前に初めて褥瘡で入院したときに、当時看護学校1年の実習生として、私の担当になったIさんだったのだ(「第12回 半年に及ぶ入院を終えて」参照)

「Iさん?えー、まさかこんな形でまた会えるなんて」

3年という月日もあるが、Iさんは当時のあどけなさが抜けて、成長した大人の印象に変わっていた。

またそのしっかりとした受け答えの様子から、この3年間で一生懸命頑張って立派な看護師になったことが伝わってきた。

その間、私もサスケ工房という新しい場所を見つけることはできた。

しかしIさんの成長ぶりを見たときに、ずっと同じことを繰り返している自分が何か情けなくなった。

夏の入院生活

入院~移植手術までの流れについては、1年前のものとほぼ同じで、重複した説明となるのでその様子については割愛する。

無事にデブリードマンの移植手術も終え、入院してから1か月が過ぎた。
セミの鳴き声もせわしくなるなか高校野球の県大会も始まり、いよいよ夏本番を迎えていた。

息子の高校は初戦で、今治では強豪校の一つと言われていた高校と対戦することになっていた。

1年生なので当然レギュラーはおろかベンチにも入れない段階だったが、大会となると全学年の父兄が総出の応援をするというのが恒例となっていた。

試合当日は特にテレビ中継もなかったので、妻にその都度様子を教えてもらったりした。

下馬評では完全に相手側有利と言われていた。
しかし、試合は劣勢の状態から最終盤で逆転するというまさかの展開で勝ったのだ。

勝った直後、興奮した様子で妻から電話がかかってきた。
そして、電話越しに私の母校でもある高校の校歌を聞くことが出来た。

全力で校歌を歌う息子の先輩たちの様子が目に浮かび、なぜだかわからないが涙が溢れてきた。

息子からは、これまでに何度となく先輩たちをリスペクトする話を聞かされていた。
それは決してレギュラーで活躍している先輩だけの話ではない。

3年生で最後までベンチ入りできなかった先輩たちが、大会前の最終練習日の儀式として、監督やチームメイトへの感謝を、グランドに向かって泣きながら大声で伝えたという話をふと思い出した。

そういった背景のなかでの勝利だったので、日頃の努力が報われて本当によかったと思うと同時に、その空気を病室からでも感じとれたことが嬉しかった。

相部屋で仲良くなった患者さんや、その時たまたま検温に来た看護師さんにも、その興奮を喋らずにはいられなかった。

「来年こそは絶対に応援にいかないといけないですね」
看護師からそう言われ、大きく頷いた。

病室にいてもこれだけのパワーをもらえるのだ。
来年以降もし息子が選手として出場するとなったらと考えただけで、胸の高鳴りを覚えるのだった。

その後、息子の高校は次の試合も勝ち、久しぶりにベスト16まで進出した。
結果的に最後となった試合は新居浜勢対決となったのだが、大接戦の末に惜しくも1点差で敗れた。

こうして大健闘をした我が母校の活躍が、入院中の私にとっても大きな励みとなり、また活力を与えてくれたのだった。

何度でも立ち向かう精神

入院中のエピソードとしてもうひとつあげるとすれば、白石社長に1年前の入院の時同様にお見舞いに来ていただいたことだろうか。

5月にサスケ工房として2つ目の西条事業所が開所したばかりで、社長はかなり忙しいことをHさんから聞いていた。

それだけに突然のお見舞いはほんとうに嬉しかった。

普段は在宅ということもあり、なかなか社長とお話しする機会もなくなっていたので、せっかくなので会社のこれからのことなどを聞いた。

「次は愛媛以外でも事業所を出そうと思っているんですよ」
さらっと言われたその言葉に驚いた。

「将来的には四国四県、いやほんとうは全国にどんどん広げていきたいんですよ」
続けて聞かされたその底知れぬ志の高さに圧倒されてしまった。

そして私は恐る恐る社長にこう言った。
「私は腰が重い性格なのですが、社長の行動力、ポジティブ思考の秘訣を教えていただきたいです」

すると社長は、無邪気な笑みを見せながら、首を横に振った。
「いやいや、そんないいものではないですよ。これまでいっぱい失敗してきましたからね。当時はほんとうにどうなるのだろうかということの連続でしたから」

具体的な失敗談なども聞いたが、当時はかなりたいへんだったに違いないのだが、それを過去のこととして笑いながら話せる社長がまぶしく見えた。

「まあ失敗しながらも、ついつい次の新しいことを考えてしまうんですよ」
社長は自虐的に言ったのかもしれないが、私には完全に響いていた。

今回の入院で私はまた同じ失敗を繰り返してしまった。

自分でもあきれるくらいで、いつものように自己嫌悪に陥りかけた。

しかし社長の話のなかで、もっと前向きに人生を生きなければと思わされた。

私に今必要なものは何か?

それは、何度でも立ち向かう精神なのだ。

失敗をただの失敗とせず、同じことを繰り返さない工夫も絶対に必要だ。

しかし長い人生のなかでは、そのうえでも防げないこともある。

そのときに果たして社長のように前へ向かっていけるのだろうか。

それを自問自答しているうちに、社長の存在は私にとってますます大きいものとなっていた。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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