コラム

第29回 社長との初共演 

将棋を通じた交流

サスケ工房に復帰してから1か月が経った2015年11月のことだった。

木曜午前の通所時に、細身で背が高いまだ20代半ばと思われる青年を初めて見かけた。
職員さんに確認すると、新しくサスケ工房の利用者となったSK君とのことだった。

新居浜の隣町である四国中央市から40~50分かけて毎日通所している利用者は何人かいたが、SK君もそうだった。

「初めまして、普段は在宅で作業をしている三浦といいます。よろしくお願いします」
初めてとなる人へはいつもしているように、SK君に挨拶をした。

するとやや小さい声で「よろしくお願いします」と言ってくれたのだが、伏し目がちで全く目を合わせてくれなかった。

もう少し話がしたかったのだが、その様子から特性上あまり人とコミュニケーションを取りたがらないのだということを察したので、とりあえずそれだけで済ませた。

その後、午前中の作業を終えお昼となったので家に帰ろうとしたら、いつも元気な女性職員のSHさんが珍しく私を呼び止めた。
何事だろうと振り返ると、SHさんの後ろにはSK君が少しモジモジしたような様子で立っていた。

「三浦さん、確か将棋が趣味でしたよね?実はSK君も将棋が好きらしいんです」
SHさんのその言葉を聞いて、思わず顔がほころんでしまった。

SK君は相変わらず私とは目を合わせなかったが、私のほうから声をかけた。
「じゃあ、せっかくなんで1局指そうよ」

ちょうどお昼休憩になったばかりで早指しの対局なら十分1局指せるということで、すぐにNさんや画伯(Wさん)が普段使っている盤駒を借りて対局をした。

実際に指してみると思った以上に手ごたえがあり、聞けば高校の頃は将棋部だったらしい。
結局その勝負は私が勝ったのだが、その後少し驚くことがあった。

それまで必要最低限のことしか喋らなかったSK君が、負けた将棋の内容のことについてまるで人が変わったように喋り出したのだ。
いわゆる感想戦という対局の反省会のような会話なのだが、「ここでは、こうすればもっと難しかった」というような話を次から次へと私にぶつけてきた。

おそらく負けた悔しさもあったのだろうが、それまで見せなかった笑顔も交えたその様子から、私はひとつ何か大きなものに気づいた。

人とのコミュニケーションが苦手な人でも、共通の趣味を通じてそこから心を開かせることができるということに。

気がつけばSHさんや施設長のHさん、新職員のNTさんなどが私たち二人の周りを取り囲んでいた。

SK君のその饒舌ぶりに驚きつつも微笑ましく彼を見つめる職員さんたちの表情が印象的だった。

音楽を通じた交流

さらに12月に入ると、サスケ工房の利用者が一気に3人新しく増えた。
いずれも30歳前後の若い男女で、3人のうち2人は難病等の身体障がいを抱えていた。

ただもう一人のHS君に関しては、「パーソナリティ障害」という初めて聞く障がい名だった。
一見するとごく普通の青年で、話してみても何が障がいなのかは全くわからなかった。

練習も基本的に手際がよく、少し教えてみて理解力がかなりいいのもわかり、だんだん彼のことがもっと知りたくなってきた。

「HS君は前はどんな仕事してたん?」
私がそう聞くと、彼の口からは予想もしない答えが返ってきた。

「ずっとピアノ教室を自営でやっていたんですが、途中で今の障がいが発症してしまって」

見た目はどちらかというと今風の若者といった雰囲気だったので、そのギャップにさらに驚かされた。

聞けば音大卒業後に一時期イタリアへ留学するなど、本格的なその経歴にも衝撃を受けた。
しかし、クラシックの世界でピアニストとしてそれを生業にできる人はほんの一握りだという。

いろいろなことが積み重なって、本来ならこの新居浜のサスケ工房で出会うはずのない人に出会えたという縁と不思議を感じた。

私も年齢を重ねてから、それまでのロック、ジャズに加えてクラシック音楽もたまに聴くようになっていたので、その話を引き出せたことは嬉しかった。

まさに将棋のSK君の時と同じく、昼休みの時間でショパンやリストなどの音楽談義に花が咲いた。

それ以降、毎回の通所がお互いに楽しみになり、職員のSHさんやNTさんの話では、いつも「三浦さんは次いつ来るんでしたっけ?」と言ってくれているとのことだった。

そして妻の送迎でサスケ工房の駐車場に着くやいなや、HS君は待ってましたとばかりに外に飛び出してきて、甲斐甲斐しく私の車いすを押してくれるという可愛げもあった。
また、誰に対してもすごくフランクで、重度の言語障害を抱えた利用者さんにも積極的に声をかけていた。

そんな彼からすっかり元気をもらった私は、入院以降ずっと引きずっていた虚無の状態からは抜け出しつつあった。

「人とのコミュニケーションに何かがある」
そう感じ始めたのである。

サスケ工房という職場を通じて、ひとりでも多くの人と交流できれば私がここに居る意味もあるのではと思い始めた。

そして、前職のときに当時私が営業の傍ら、歓送迎会などの会社行事で毎回みんなを喜ばせる活動をしていた時のことをふと思い出し、「またやってみてもいいかもしれない」と思い始めた。

社長との初共演

前職のときのみんなを喜ばせる活動とは何かについて触れておきたい。

きっかけは、同僚の結婚披露宴の余興で別の同僚とコンビを組んで、当時お笑い番組でよく出ていた「くず」という歌とギターと漫才の二人組をそのまま演じたことだった。

披露宴に同席していた常務がたいそう喜んでくれて、「本社部署の飲み会のときは必ずそれを余興でやれ」との指示が下ったのだ。

当時は営業所で一番重要な得意先の担当で、責任も重かったため最初は不安だったが、ギターを弾いたり人前で笑いを取ること自体は嫌いではなかったので、やるならとことんやろうと腹に決めたのだ。
常務からも「これは遊びじゃないぞ、やるからには完璧にやれよ」と発破をかけられた。

それ以来、東京勤務となるまでの約2年間、営業とはまた別の役割として、もうひとりの同僚とのコンビでみんなを笑わせ続けてきた。

また一方では別部署となる広報部門に、のど自慢グランドチャンピオン大会で日本一の経歴の持ち主で、社長の判断で入社して早々に「実業団歌手」の肩書でテレビ等の広報活動をしている社員がいた。

あるとき、その社員のための社長公認のバンドを結成するという話が立ち上がり、そこのギターとしても白羽の矢が立ったのだ。

毎年本社で行われる入社式で全国から集まった新入社員の前での演奏や、新設営業所での記念行事などに社長と帯同し来賓の前で演奏したことは今でもよい思い出となっている。

ある日、Hさんから11月に開所した鳴門事業所も含めた4事業所合同での忘年会の案内があった。

私は直感的に、歌うことが大好きな白石社長と何かやろうと思い立った。
真っ先にHさんのところへ行き、そのことを伝えた。

するとHさんは笑いながら、「きっと社長は喜びますよ。さっそく三浦さんの提案を伝えてみますね」と言ってくれたのだ。

そして、話はトントン拍子に進み、社長の当時の十八番だった中島みゆきの「糸」を、福山雅治がカバーしていたバージョンでやろうということになった。

社長はご自身でも言われているが、承認欲求の強い恥ずかしがり屋だった。
そこがなんともお茶目なところだったのだが、4事業所の大勢の前で歌うのは緊張するとのことで、当日は福山雅治のお面を被るということになった。

私のほうは当時彗星のごとくあらわれていたレディ・ガガに変装しなぜかギターを演奏するという、シュールかつカオスなコンビでやることを思いついた。

そしていよいよ忘年会を迎えたわけだが、私自身サスケでは初めての試みではあったが、余興は大好評で参加している人たちを大いに喜ばせることができたのだ。

このことが起点となって翌年以降、花見や忘年会といった行事のときは必ず何かをやることになった。

その動機は社長や同じ障がいを抱えた人たちのために何か楽しませたいという思いからだった。

しかし今思えば、これをきっかけに明確な目標意識が芽生え始めたという意味では、実は何よりも自分自身のためだったのかもしれない。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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