2020年になり、ついにサスケ工房に入ってから8年目を迎えた。
体調はすっかり安定し、あれだけ毎年苦しんでいたことが嘘のようだった。
仕事のほうもFチームのメンバーとしてかなりの作業量をこなす日々だったが、毎週木曜の通所時にチームメンバーとのミーティングなども行いながら、納期までには毎回対応できていた。
作業に少し余裕があったときなどは、チームメンバー以外のサスケに新しく入った人への質問対応なども行うように心がけていた。
それらのやりとりなかで、同じ車いす利用者のTAさんとは特に気が合った。
TAさんは私よりも4つほど年上の男性で、元はトラックの運転手をされていたのだが、仕事中の転落事故により下半身不随になったとのことだった。
境遇は異なるが、障がいの症状としては私と限りなく近いということもあり、お互いに親近感があった。
また二人とも話好きという共通点もあったため、お互いについつい声が大きくなることもあり、何度か職員のNTさんに注意されたこともあったのだが、今となっては懐かしい思い出だ。
しかし、TAさんの仕事に対する向上心は凄まじいものがあった。
「三浦さんがFチームで打ち合わせしている内容までついつい気になってしまうんですわ」
TAさんが笑いながら言ったこの言葉がそれを象徴していた。
前回までに様々な別れの話にも触れたが、去っていく一方でまた新たな人が入ってくるというのも、A型事業所ならではだった。
気がつけば、私は新居浜事業所にいる利用者のなかでは2番目となる最古参となっていた。
つまり、それはサスケ工房全事業所を通じて言えることでもあった。
そんな過去のことも振り返りつつ、TAさんのような新しい人たちと接していると、ふとこの先もずっと、利用者のままで居続けるべきなのだろうか、ということが頭をよぎるようになった。
またそれと合わせて、社長からのあの何気ない言葉がたびたび交錯してくることもあった。
その一方で3月に入ると、(世間はたちまちコロナ禍となり騒然となっていたが)同時に息子の就職先の配属も東京と決まり、あとは入社を待つだけとなっていた。
それらのひとつひとつが何か私の背中を押しているのを感じた。
そして、ついに私のなかである感情が顕在化した。
「利用者を卒業して、白石社長のもとで働いてみたい」
何度か心の中でその気持ちを確認したが、ようやくそれが自分のゆるぎない強い意思であることに気づいた。
私の「可能性」
まさか自分が利用者を卒業しようという気持ちになるとは。
確かにA型事業所の収入だけで生活していくのはしんどいのも事実だが、私の場合は重度身体障がい者ということもあり、それ相応の障害年金も受給していた。
そのこともあってか、これから先もずっと利用者のまま働き続けるつもりでいた。
しかし、ここに来てガラリとその気持ちが変わった。
「もっと何かできるのかもしれない」
それはつまり生活のためというよりも、私の「可能性」のためだった。
社長からの何気ない言葉から、急にそのことを意識するようになったのだ。
まさにサスケグループの理念に沿うかのような心境の変化だった。
もしかしたら、これまで自分自身への自信がなかっただけなのかもしれない。
まだ人生は半分ほどもあるのに、本当にこのままでいいのだろうか。
もっと自分自身の「可能性」を探っていったほうがいいのではないか。
その思いとともに、もう一つのある感情も芽生えていた。
「今の会社、そして白石社長に恩返しをしたい」
それは偽らざる思いだった。
障がいになってから当時勤めていた会社も辞めざるを得ない状況となり、その後も褥瘡等の試練によって、路頭に迷いながら自暴自棄になりかけていた。
そんなときに出会ったのが、サスケ工房だった。
まさに藁をもすがる気持ちだった。
白石社長が新居浜で立ち上げたサスケ工房によって、三浦秀章という一人の障がい者は間違いなく救われたのだ。
またサスケ工房に入ってからも、これまで幾多の入院を繰り返しきたが、どこかで挫けていてもおかしくなかった。
しかし、私にとってサスケ工房は必ず帰ってくる場所でもあったのだ。
その存在のおかげで、なんとかここまで前向きな気持ちで乗り越えられてきたとも言える。
おかげで今はもう体調面の不安もなくなった。
もし不安があると言えば、私自身が社員になってどこまで会社に貢献できるのかということと、私の希望がほんとうに認められるのかということだけだった。
その不安について妻に相談をした。
「きっと大丈夫よ。そういう気持ちになったんなら挑戦してみたら」
その言葉で私の迷いは完全に吹っ切れた。
ついに希望を伝える
6月になり、Hさんと相談支援員さんとの半年に1回のモニタリングがあった。
気持ちが固まってから、社員になりたいという希望を伝えるタイミングをずっと探っていたのだが、ついにそのときが来たのだ。
半年間の振り返りを終えたあと、私は意を決してHさんに私の思いを伝えた。
「実はここ数か月前からずっと考えていたんですけど、利用者を卒業してサスケグループの社員として、もっと幅広い仕事で会社に貢献できればと思っています」
勇気を出してそう伝えるとHさんも相談支援員さんも、かなり驚いた様子だった。
続けて、社長からの何気ない言葉がひとつのきっかけとなったことを正直に説明した。
するとHさんは笑みを浮かべながら
「事業所としては、三浦さんが抜けられると痛いところもあります。でも三浦さんがそういう気持ちになってくれたことは、私としては本当に嬉しいですし、そこは尊重したいと思います。社長も三浦さんのその気持ちをきっとわかってくれると思いますよ。近いうちに私から社長に相談させていただきますね」
と言ってくれたので、まずは安堵した。
ただ、ほんとうに社長が私のことをどう思っているのかはわからなかったのでまだ不安はあった。
そして、それから1週間後のことだった。
その日は通所日だったのだが、朝礼後にHさんから声がかかりそのまま面談室に呼ばれた。
社長のことだとわかったので、さすがにこの時だけは緊張した。
固唾を呑む心境でHさんからの次の言葉を待った。
「三浦さんの希望を社長に伝えたところ、すごく喜んでくれて認めていただきました」
それを聞いて一瞬にして強張った体がほぐれた。
「ほんとうですか、嬉しいです!!ありがとうございます!!」
私がやや興奮気味にそう言うと、Hさんから「ただ、」と言いながら以下の言葉を続けた。
「今すぐ抜けられると新居浜事業所の実務にも影響が出てしまうので、これから約1年をかけて新しい人への引継ぎをしたうえで、その後に正式に社員になってもらえたらという話です」
ほんとうはすぐにでも社員にさせてほしいと思っていたので、その点については正直なところがっかりした。
出来れば私の代わりとなる人をすぐにFチームに入れてくれればよかったのが、現状では同じレベルで対応できる人がいないので、次の後任を育てるために1年は必要との判断だった。
そしてここ1年ほどで入ってきた利用者のなかで有望な人を2人ほど人選するので、毎週の通所時にはその2人の指導を行ってほしいとのことだった。
つまり、その2人を育てることが1年後に社員になるための必須条件となったのだ。
そのことを了解し、Hさんにお礼を言って面談室を出ようとしたとき、あらためてHさんに呼び止められた。
「三浦さん、もうひとつ大事な条件がありました」
思わず「えっ」となったが、次のHさんの言葉ですぐにその意味を理解した。
「これからの1年間、入院なく過ごせることです」

サスケ業務推進事業部
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。









