コラム

第7回 未知の障がいを知る

初めての職業訓練

2009年10月、いよいよ3か月間の職業訓練が始まった。

初日の朝、私は少し緊張しながら自分のノートパソコンを持参して新居浜商工会議所のエレベーターに乗った。
指定された部屋のある3階のボタンを押そうとしたとき、少し遅れて乗り合わせてきた男性が先にそのボタンを押した。

その男性をよく見ると、ノートパソコンのバッグと職業訓練に関する書類を手に持っていたので、同じ受講者だと思い「今日から職業訓練を受けるものです、よろしくお願いします」と挨拶をした。

しかし、男性はこちらには目もくれず、エレベーターの階数表示のところをずっと凝視したままだった。
いきなり無視をされたことに少し動揺したが、平静を装いつつ男性の後を着いて行くような形で、3階奥にある一室に向かった。

部屋に入ると、すでに5人が席に座っていた。
誰もひと言も発せず、部屋は水を打ったように静かなままだった。

しばらくすると今回の訓練のメインとなるPCスキルの講師が入ってきた。
講師は30歳の女性で、民間会社からの派遣という形だった。
その後、講師の自己紹介や訓練内容についての説明がひととおり終わり、いよいよ受講者の自己紹介という段になった。

受講者は6人で、50代の男性1人、30代の男性が私を含めて4人、20代の女性が1人だった。
そして、もう1人その女性の横に保護者らしき年配の女性がついていた。
障がい者対象の職業訓練とはいえ、表面的には誰がどのような障がいをもっているのかは、自己紹介を聞くまでは見当もつかなかった。

先ほどエレベーターで居合わせたNさんは私より一学年上の39歳で、左耳がほぼ聞こえないという障がいであることがわかった。
つまり、私の挨拶を無視したのではなく、Nさんの左手から声をかけたため聞こえなかっただけなのだ。

20代の女性Yさんは、生まれつきのろうあ者で発話をすることも出来ない障害だった。
そばにいる女性Aさんは、手話サークルで知り合ったという通訳のボランティアだった。
Yさんがひととおり手話で自己紹介をした後、Aさんが代わりに言葉にして伝えていた。
   
その他にも、てんかん発作と精神障がいを抱えているTさん、発達障がいのひとつであるASD(※1)のSさん、脳梗塞の影響で左手が不自由なKさんがいることをようやく理解した。
Kさんの障がい以外は、私の人生において初めて身近に遭遇する障がいの人達だった。

職業訓練はCS検定3級の取得を目標としたPC技能訓練が主体で、週に2回ほど人材派遣会社からの講師によるビジネスマナー講座を織り交ぜる形だった。

ビジネスマナーについては、正直なところ今更ながらという感もあったが、履歴書の書き方などは学生の頃以来ということもあり、多少は参考になるとは思っていた。
PC技能については、ワードにしてもエクセルにしても全く自信がなかった。

これまではずっと営業の仕事をしてきたわけだが、特に資料作りなどは営業部としての方針もあり、手書きで書いた案をマーケティング部や営業所の事務員にフォローしてもらっていたため、仕事を通じてスキルアップするような機会がなかったのだ。 

さすがにこうしたスキルに苦手意識があったが、毎日訓練を受けていくうちに、少しずつでも身につけていこうという気持ちがぼんやりと芽生え始めていた。

未知の障がいを知る

隣に座ることになった難聴のNさんとも日を追うごとにすっかり仲良くなった。
彼と話すときは必ず右耳に向けて少し大きな声で話すようにした。

Nさんには会社員の奥さんと、5歳の息子がいるとのことだった。
そんな毎日のやりとりのなかで、彼が以前バスの運転手をしていたこともわかった。

詳しくは聞かなかったが、数年前から進行性の難聴となり、最終的には勤めていた会社と揉める形で仕事を辞めたとのことだった。

難聴という部分が仕事においてどこまでの支障があったかはわからないが、今はそんなつらい過去を引きずっている様子もなく、毎日パソコンに向かって受講している姿は誰よりも活き活きとしていて、講師への質問も一番多かった。
そんなNさんの熱心さに、私も知らず知らずのうちに刺激を受けていったように思う。

そして、もう1人熱心な受講者が、唯一の女性であるYさんだった。

通訳のAさんを通じて講師に何度も質問したり、自宅に帰ってからもその日習ったことの復習を怠らず、6人のなかでは一番優秀でタイピングなどもダントツに早かった。
そのうえで明るく、休憩時間などにAさんを通じて好きなジャニーズのアイドルのことを教えてもらったりもした。

そのときに驚いたのが、簡単な会話なら私が喋っている口の動きだけで、何を言っているのかを理解していたことだ。
それは私にとって、生まれながらにして障がいをもつということの奥深さを直接的に感じさせられる場面でもあった。

ASDという発達障がいのSさんは常に物静かだった。

表情はいつも柔和であったが、Sさんから話しかけてくるということは一度もなかった。
最初はその様子に戸惑った。

ひょっとして嫌われているのではないかと疑心暗鬼になったりもしたが、徐々にその特性を理解し、こちらから声をかけるように努めた。

声をかけるとちゃんと返してくれるということがわかり、徐々に打ち解けていったように思う。

国立大学在学中にASDという障がいであることを知り、卒業後一般企業に就職していたが、なかなか会社という組織においてのコミュニケーションがうまくいかず、何度か転職を繰り返したとのことだった。

Tさんは私より3つ年下だったが、20代の頃にてんかん発作で自転車に乗っているときに気を失い、走行中の車に跳ねられ今でも左足にそのときの後遺症が残っていて少し足を引きずっていた。

話をしているうちに、非常にネガティブな性格であることと、やや虚言癖があることがわかった。
また小さい頃から自分は優秀だった弟に比べて、親から大事にされてこなかったということを、毎日口癖のように発していた。

そしてTさんに関して一番問題だったのは、すでに既婚の女性講師に対して、お構いなしに休憩時間などに休みの日は何をしているのかなど、プライベートなことを執拗に聞いたりしていたことだった。
何度かそのことで私やNさんが注意もしたが、そんなときは決まって自分の境遇の話を持ち出して、半ば会話にならない状態が多々あった。

今こうして振り返ってみると、このときの職業訓練は単なる技能習得の訓練というだけにとどまらず、そこで出会った人の人生や障がいなどの人間模様を知る機会となり、改めて障がいとは何かを考えるきっかけとなったかもしれない。

資格取得のその後

職業訓練の3か月間は毎日が充実していた。

当初はどこまでできるか不安もあったが、毎日コツコツと積み上げていくような学び方は学生以来の経験で、できないことができるようになるという喜びを味わった。

特にNさんとYさんとは、12月最後のCS検定3級試験に向けてお互いにメールなどで励まし合ったりもしていた。
Yさんとメールのやりとりをしていると、彼女に障がいがあることなどすっかり忘れてしまうくらい、饒舌な文面だったことが今でも思い出される。
Nさんとは、一度自宅にも来てもらってお茶をしながら一緒に試験対策をした。

その甲斐もあって、ワードとエクセルともに3人は無事に3級に合格することができた。

そしてそのまま職業訓練も12月いっぱいで終了することになったのだが、Yさんは年明け以降も引き続き独学で、CS検定の2級を目指すとのことだった。
聞けば、市役所などの公的機関での事務を目指すという目標をすでに持っていて、そのためにもっと頑張るのだという。

そんなYさんの前向きな姿勢がまぶしく見えた。

それに比べて私はどうだったか。

NさんやYさんのおかげでモチベーションを維持し、なんとか資格取得にまでつながったものの、次にどうするかといったことを具体的に考えてはいなかったのだ。

そんな状況のなか2010年の初頭に新たな問題が発覚する。

それは現在に至るまで悩まされ続けることになる、お尻の褥瘡(じょくそう)の発見だった。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

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