コラム

NHKビジネス特集『障害者だからこそできること』に感銘!!

障がいには、大きく分けて先天性と後天性の2つがあります。

先天性というと生まれつきの障がいというイメージを持ちますが、私の場合は大人になってから発症したケースなので、交通事故などによって引き起こされる後天性の感覚に近い先天性といえます。

後天性の場合は、突然ふりかかってきたその障がいを受け入れるということに時間がかかります。

私も今でこそ、自身の障がいを前向きに考えられるようになり、このような拙いブログも書かせていただいていますが、そこに到達するまでには中々時間がかかりました。

今回取り上げた記事のタイトル『障害者だからこそできること』は、まさにすべての障がい者が常に自問自答していることです。

そして、ここで紹介されている香川県観音寺市の経営者、毛利公一さんの生き様はまさにその希望であり、たいへん勇気づけられるものでした。

“棒高跳びの選手として将来を嘱望されていた毛利さんは、18年前、不慮の事故で脊髄を損傷”

スポーツ選手で活躍をされていた毛利さんにとって、当時の心境はいかばかりだったかと思います。
それこそ命を削られる思いだったのではないでしょうか。

“医師からは「一生、人工呼吸器をつけたまま寝たきりになる」と告げられた”

とあり、首から上しか自由に動かせないというのです。

そんなつらい状況にありながら、人口呼吸器に頼らなくてすむまでにトレーニングされ、こちらが恥ずかしくなるくらいに、その後積極的に行動を起こされます。

“「職場を探しましたが見つからず、面接を受けることは一度もできませんでした。だったら自分で会社を作るしかないなと。とにかく、自分の働く場所がほしい、働く場所をつくりたいという一心でした」”

この発想ができることが何よりすごいですが、その後独学で経営を学びながら介護事業所の設立をし、現在は地域のための就労支援事業までされているのです。

本来であれば、毛利さん自身がそれらのサービスを受けなければならない立場であるにもかかわらず、むしろその経験を活かして同じように困っている人のための事業を起こすというのは、ただただ頭が下がります。

そして、その熱意は踏みとどまることなく、さらに人口呼吸器が外れたときにセンサーで知らせる機械をつくる会社や、障がい者で起業を目指す方のためのコンサルティング事業などご自身の経験に基づかれた事業を次々と立ち上げられています。

“「世界の障害がある方のためにもう少し何かできないかと考える中で、『もの』を作ろうと思いました。役に立つ商品を開発してそれを送ったりすれば、実際に自分が行ったり会社をたてたりすることが難しい遠くに住む人たちも救うことができるのではないかと」”

なんとしても働きたいという強い気持ち、スポーツで培ってきたバイタリティが毛利さんの原動力だと思うのですが、ここまで社会的な事業を推し進められたのは、何よりも同じような境遇の仲間を思う気持ちが人一倍強かったからではないかと、この発言から感じとれます。

しかも「世界の障がい者」という言葉から、障がいにおいて国境はないとでもいうべき心のバリアフリー感覚、視点を持たれていることが伺えます。

ただ、そういう強い気持ちがあったとしても、重い障がいを抱えていれば一人で出来ないことも多いと思います。

そんななかどのようにしていったかということについても、毛利さんはご自身のコンサルティングの見地から、明快に答えられています。

“「経営者にとって大事なことは、自分の想いを伝えることだと思います。『自分はこういう思いでこの事業を始めたいんだ』と発信さえすれば、それに応じてくれる人は必ずいるはずです。なんとか仲間をみつけて、障害のある当事者がみずからの経験を生かして事業を始めてくれるのなら本当に嬉しいことだと思います」”

たとえ重い障がいがあっても、その熱意を人に伝えればなんとかなるんだということは、まさに毛利さんが実践されてきたことであり、何よりも説得力がある言葉です。

このことは、必ずしも障がい者や経営を目指す人だけに響く言葉ではありません。

健常者の方含めてすべての人に響くものだと思います。

多少困難があったとしても、毛利さんのことを思えば大抵のことは乗り越えられるのではないでしょうか。

私自身も今後、何かしら壁にぶつかることもあると思いますが、そんなときは同じ四国在住の毛利さんのことを思い出し、「障がい者だからこそできること」をモットーに突破していきたいと思います。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

車いす社員みうらさんのプロフィール詳細→こちら

車いす社員みうらさんBLOG カテゴリTOP→こちら

PAGE TOP