コラム

最終章 あれから18年、今思うこと

「あれからもう18年か」

今、私の胸の奥にはさまざまな情景が浮かんできます。

突然歩けなくなったあの日。

病室の窓から見た空。

退院しても何もできず、ただ天井を見上げていた日々。

そして、サスケ工房のドアを初めて開いた瞬間。

すべてが昨日のことのように思い出されます。

18年前、私は“絶望”という言葉をそのまま体現していました。

自分の足で立つことができない現実を受け入れられず、「もう人生は終わった」と思っていました。

家族の前でも笑えず、誰かに会うのも怖くて、外出することさえ避けていました。

そんな私が今こうして、仕事を続け、仲間に囲まれ、自分の言葉を誰かに届けている――それは決して、奇跡なんかじゃありません。

それは“誰かが差し伸べてくれた手を、勇気を出して握り返した”という、小さな一歩の積み重ねだったのです。

サスケ工房との出会いは、まさに私の人生の転機でした。

「障がいがあるから無理だろう」と思っていた仕事の世界に、もう一度踏み出すきっかけをくれた場所です。

最初の頃は、正直怖かったです。

図面の仕事も初めてでしたし、ミスをしたらどうしよう、体調を崩したら迷惑をかけるんじゃないか……そんな不安ばかりでした。

けれど、サスケ工房の人たちは私を“障がい者”としてではなく、“仲間”として迎えてくれました。

「三浦さん、ここはこうすれば大丈夫ですよ」

「無理せず、でも一緒にやりましょう」

そんな言葉の一つひとつが、私の心を少しずつほぐしてくれました。

気がつけば、私はもう一度“働く喜び”を感じていました。

体は自由ではなくても、頭と心はまだ動く。

考え、工夫し、仲間と成果を共有する。

図面の線の一本一本に、自分の存在を重ねるような気持ちでした。

「今日も一日、ここで生きている」と実感できる瞬間。

それが、何よりの支えになりました。

しかし、順風満帆だったわけではありません。

途中、何度も入院し、体調を崩しました。

病室で仕事のことを思い出し、「また戻れるだろうか」と不安に押しつぶされそうになったこともあります。

けれど、そのたびにサスケの仲間たちは待っていてくれました。

「三浦さんの席、ちゃんと空けてますからね」

その言葉がどれほど救いだったか、今でも忘れられません。

そしてある日、白石社長から何気なくかけられた言葉をきっかけに、自分でも全く予想できない方向へと舵を切ることになったのです。

「もっと何かできるのかもしれない」

その言葉を胸の奥で何度も反芻していくうちに、“自分を信じてみてもいいのかもしれない”という思いが芽生えました。

そこから、私は一年間、体調を整え、後輩に仕事を教えることを目標にしました。

小さな目標を積み上げるうちに、自分の中で何かが変わっていったのです。

やがてその約束の一年が経ち、私は正式に「車いす社員」として働くことになりました。

“利用者”という言葉から離れ、自分の足で立つような気持ち。

車いすではありますが、心は確かに前を向いていました。

あの日、「もう終わった」と思っていた人生が、実は“もう一度始まる”ための準備期間だったのだと、今は思います。

この連載を通して、たくさんの方からメッセージをいただきました。

「励まされました」「自分ももう一度挑戦してみたい」「仕事を続ける勇気をもらいました」

その一つひとつが、私にとっての宝物です。

でも実は、誰よりもこの連載に励まされてきたのは、私自身なのです。

自分の過去を振り返り、言葉にすることで、傷ついた心を少しずつ癒やすことができました。

“誰かの支えになる”ということは、同時に“自分を取り戻す”ということでもあるのだと気づきました。

この18年で、私は「支援される側」から「支援する側」へと少しずつ歩みを進めてきました。

前回、今から4年半前に私が利用者から社員になったというところまでお伝えしていましたが、せっかくですのでその後現在までのことについて合わせて触れておきます。

実はその間一度だけピンチがありました。

2023年1月に褥瘡の再発で4か月ほどの入院に追い込まれたのです。

このときはさすがにショックでした。

もう二度と入院することなどないと思っていただけに入院中はかなり気持ちがグラつきました。

しかし、私はこのピンチもこれまでの経験をもとに何とか乗り越えることができました。

むしろ復帰後は大きな仕事を任せられるようになり、ついに昨年2024年10月にその頑張りが認められて、業務推進事業部マネジャーの立場になることできたのです。

利用者のころは忘年会のときだけ接することが出来た白石社長とは、今やほぼ毎日のように侃々諤々の議論をさせていただきながら、日々マネジメントの勉強をさせていただいています。

いわば、かつての歌の伴奏者から仕事の伴走者へと転換することができたのです。

ただしこの立場になったからこそ、これから実現させていかなければならない目標があります。

“障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。
そして、「将棋」「企業の社会貢献」「営業」「障がい」というこれまで学んできたファクターを、サスケグループでの与えられた役目のなかで昇華させ、会社と社会に恩返しすること。”

ブログのプロフィールにも書かせていただいた目標・夢のことです。

誰かが私に差し出してくれた優しさを、今度は自分の手で誰かに渡したい。

それが、私の“あすへの一歩”の本当の意味なのかもしれません。

もし今、あなたが苦しんでいるなら、焦らなくて大丈夫です。

周りの人がどんどん進んでいるように見えても、あなたにはあなたのペースがあります。

立ち止まってもいいし、泣いてもいい。

大切なのは、“もう一歩だけ、前に進もう”と思える瞬間を、自分の中に見つけることです。

私もそうやって今日まで来ました。

たった一歩。それが、次の日を生きる力になります。

障がいを持つことは、確かに不便で、苦しいことが多いです。

けれど、それが「不幸」だとは限りません。

私はこの身体になって初めて、人の優しさや、働く喜びの深さに気づきました。

“できないこと”の数を数えるより、“できること”を一つでも見つけること。

それが、毎日を希望に変えていく唯一の方法だと思います。

サスケ工房での18年間は、私にとって「生きる力」を育ててくれた時間でした。

仲間、上司、支援員、そして家族。

誰一人欠けても、今の私はいません。

この場を借りて、心からの感謝を伝えたいと思います。

本当に、ありがとうございました。

最後に――この連載を読んでくださったあなたへ。

どうか、自分をあきらめないでください。

たとえ周りが理解してくれなくても、あなたの人生は、あなたのものです。

どんな状況でも、必ず誰かがあなたのことを見てくれています。

その誰かの手を、どうか信じて、握り返してほしい。

私がそうしてきたように。

私の“あすへの一歩”は、今日でひと区切りを迎えます。

でも、明日はまた新しい一歩が始まります。

どんなに小さな一歩でも、前に進む限り、人生は続いていく。

それを教えてくれたのが、サスケ工房であり、ここまで出会ってきたすべての人たちでした。

あれから18年。

私は今、穏やかな気持ちでこの言葉を綴っています。

「生きていて、よかった」

この言葉を、心の底から言えるようになるまでに、時間はかかりました。

けれど、歩みを止めなければ、きっと誰もがその日を迎えられる。

それを信じて、あなたも自分の“あすへの一歩”を歩んでください。

心からの感謝を込めて。

株式会社白石設計&サスケグループ
サスケ業務推進事業部
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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