コラム

久遠チョコレートに感銘:夏目浩次代表の熱き思い

今回取り上げた記事は、今年1月11日に放映されたばかりの「カンブリア宮殿」(テレビ東京)の中で紹介された久遠チョコレートについてです。

『カンブリア宮殿』登場!障害者が一流のスイーツを作る「久遠チョコレート」誕生まで(現代ビジネス_2024.01.12)
久遠チョコレートの奇跡(カンブリア宮殿_2024年1月11日放送分)

その取り組みにたいへん感銘を受けてしまい、Tverでそのカンブリア宮殿を視聴しようとしたのですが、なぜかすぐの配信ではないため(1週間後から1/25まで)、思わずテレ東bizサイトに登録をしてしまいました(笑)

元々関東にいた頃は、小説家としての村上龍さんのファンということもあり、毎週のように観ていた番組だったので、今現在も長寿番組として続いているということに驚きつつ、懐かしい気持ちで視聴しました。

記事同様にその内容は素晴らしく、久遠チョコレートの夏目浩次代表の熱い思いや、重い障がいを抱えた人たちが同社で活躍している様子を見て、何度も目頭が熱くなりました。

みなさんに伝えたいことがあり過ぎて、本来であれば紹介記事やアーカイブ動画を観ていただくことが一番なのですが、私なりに大きく2つに分けてお伝えしたいと思います。

①久遠チョコレートの取り組み
②夏目浩次代表のストーリーとその思い

久遠チョコレートの取り組み

“久遠チョコレートは、愛知県豊橋市で始まった障害者のパン工房「ラ・バルカ」が始まり。トップショコラティエとの出会いからチョコレートを作ることになり、京都や豊橋に続いて2015年、横浜店をオープンしたという。”

‟「障害者を一流のショコラティエに」と呼びかけると、輪が広がった。”

記事によれば、久遠チョコレートは愛知県から始まり、現在は全国60拠点、年商18億円に成長しています。

なぜそこまでの成功をもたらしたのか。

それは2つ目の話としてこの後に取り上げる夏目社長の考え方がベースとなっていますが、いわゆる障がい者雇用における既成概念を打破したうえで、質の高い商品を提供できているからです。

北海道から鹿児島までの広がりや、俳優・松山ケンイチさんが手がけるアップサイクルブランドとのコラボなど、ブランドの人気や影響力が広がっていることが伝わってきます。

‟店長の山本幸代さんは、「チョコレートがおいしいのは当たり前。ここはママさんや社員、障害のある人、いろいろな人が働いていて、できる人ができることをやる店です。障害のある人と一緒に働くと、素で生きていて無駄な鎧がないんですよ。私も別の業界で働いていましたが、健常者と呼ばれる人たちは、せっつき合いが大変ですよね」と話す。”

“主なお客さんは、近所の人たち。おいしいチョコレートのリピーターになり、実は障害あるスタッフが作るブランドと知る。障害を前面に出さずに、物語は後からついてくるというのが、山本さんたちの誇りだ。”

素晴らしいのは商品力だけではありません。
ここにはまさに働き方の理想があり、まさにダイバーシティ&インクルージョンを地でいくような店舗運営がなされています。

同社は、障がい者が主体的に働き、一流のショコラティエになることを促進しており、その表れとしてお客が障がいのある方に気づかないという、まさにチョコレートが溶け合ったかのような職場となっているわけですね。

障がい者の採用だけでなく、その力を最大限に引き出すために、仕事の内容や環境に合わせた工夫も行われています。

例えば、重度の障がいの方にはチョコレートにブレンドさせるための素材のパウダー作業であれば問題なくできるとのことで、それまでの外注から切り替えたという話がありました。

また、チョコレートを溶かす「テンパリング」という作業については、むしろ障がいのあるスタッフのほうがその勘がいいという点もあるとのことで、今年2月に刊行される夏目さんの著書タイトルのとおり、「温めれば、何度でもやり直せる」の精神で取り組んでいるのです。

そして、一番の驚きはカンブリア宮殿のなかで知ったのですが、一般的な就労継続支援B型事業所と比較して、その工賃が10倍以上であるということ、また中軽度の障がいのある方のなかには、月収17万円程まで稼いでいるという事実です。

まさに障がい福祉の既成概念を完全に打ち破った素晴らしい事業運営を実現させているわけです。

そんな事業運営を確立した夏目代表とはどういう人物なのか、当然のごとく気になりますよね。

この件については記事よりもカンブリア宮殿のなかでより詳しくその人となりについて紹介されていましたので、2つ目のお話しとして、私なりにまとめてみたいと思います。

夏目浩次代表のストーリーとその思い

今でこそ、久遠チョコレートは150種類の商品をそろえ、全国で60拠点まで拡大し、従業員700名のうち430名が障がいのある方という状況でありながら年商18億円までに達していますが、その歩みは決して簡単なものではなかったようです。

今回、最も興味深かったお話しが、かつてスワンベーカリーの運営で従来の障がい者雇用の在り方を変えたヤマト運輸社長の故・小倉昌男さんとのエピソードでした。

まだ、夏目さんが大学院を卒業されたばかりの頃の約20年前に、小倉さんの取り組みに感銘を受けた夏目さんは、小倉さんにスワンベーカリーのノウハウを乞うために何度も手紙を送り、やっとの思いで会うことができたというのです。

そして、お互いの名刺交換をした際に、当時まだ何ものでもなかった夏目さんの名刺に会社名や肩書などの表記がないのをみて、小倉さんはどのような事業をされているのかを夏目さんに聞いたというのです。

夏目さんはまだ一人で事業もしていないことを伝えると、小倉さんは「帰りなさい。経営はそんなに甘いものではない」と言い、受け取った名刺を夏目さんに返しその場を立ち去ったというのです。

カンブリア宮殿のなかで、夏目さんは当時のことをかなりショックで、半ば憤りも感じたとおっしゃっていましたが、でも今となってはいい思い出でそのときのことが原点になっていると回想されていました。

つまり、小倉さんの言葉の背景にあるのは、経営は人の人生、幸せを背負うという責任があり、そう簡単なものではない、ということを厳しい態度で示されたのだということです。

そのことが発奮となり、その後ご自身でラ・バルカというパン工房を立ち上げ、障がい者を3人雇ったのですが、なかなか経営としては厳しかったようです。

ただ当時の夏目さんは以下の引用にもあるとおり、自分の考えを貫かれていました。

“夏目さんは、地元の最低賃金である時給681円を保証した。作業所にいた3人の障害者を雇用して、「絶対にこの賃金は払う」と決めた。月の給料は10万円近くなる。「初めは赤字で、7社からカードローンを借りていました」
お金の苦労はあったものの、「障害者が自立していく瞬間を見たのが忘れられない」と夏目さんは振り返る。“

結果的にこのパン工房は薄利という業態のこともあり、事業としては断念することになるのですが、その後にショコラティエの野口和男氏との出会いによって、今の久遠チョコレートの取り組みを成功させることにつなげていったわけです。

その要因としては、チョコレートがパンと違って利益率が高いものであったことや、パウダーや成型などの作業内容がハイブランドな商品のイメージに対してそこまで難しいものではなかったということをカンブリア宮殿のなかでも述べられています。

確かにその辺りが直接的な要因だとは思うのですが、それよりももっと注目しておかないといけないことは、やはり夏目さんの社会への憤りが根底にあるからこそだと思うのです。

村上龍さんは番組恒例の最後の編集後記のコーナーで、それを見事に以下のように表現されています。

重要なのは、夏目さんが感じた『憤り』だ。いちばん底に怒りがある。底にある怒りは、あらゆる誘惑と欺瞞から本人を守る

今回ご紹介した記事の中にも、その憤りがベースとなって熱い思いに転嫁した形で、夏目さんご本人が語られている言葉を、以下に列記しておきます。

“障害があるから賃金が安くても仕方ない、というのはおかしい。仕方ないでは発展しない”

‟今までの福祉は、当事者に選択肢を与えなかったんです。障害のあるなしに関わらず、成長とは一緒に乗り越えていくこと。だれにでも可能性があるんです”

‟障害者のせいではなく、運営するほうの責任なんです。障害者の福祉かどうかは関係なく、売れる、求められるものを提供すればいいと思いました”

‟障害ある彼らの仕事が、単なる社会貢献の一環として助けてあげる対象から、一流の仕事として正当に評価された瞬間でもある。こうした、誇り高き瞬間を、人から真に認められた瞬間を、人から必要とされた瞬間を、たくさんたくさん創り出し、喜びを心から味わえるように共に歩みたい”

‟みんなで一緒に、社会を変えるブランドになってみせる”

カンブリア宮殿のインタビューの最後には、名古屋高島屋で毎年開かれているバレンタインの祭典(世界から150社参加している)のなかで一番になりたいと力強く語られていました。

それは夏目さん自身の野望というより、これまで関わってきた重い障がいのある従業員やその親御さんたちが、いつか自分たちが関わっている仕事が世界で一番になったと胸を張って言えるようなものにしたいという純粋な気持ちからくるものなのです。

チョコレートによって夏目さんの人生も、それに従事する人たちの人生も大きく変わったのです。

もし小倉さんが今いたとしたら、今の夏目さんにどのような言葉を交わされるのか、それを考えただけで、何か胸にこみあげてくるものがあります。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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