サスケのみんなが待っている
入院した翌日に、褥瘡内部の壊死した組織を取り除く手術が行われた。
これは最終的に行う皮弁手術のための前段階のもので、約1時間程であっさりと終わった。
2年前のときは、この除去手術をした後からも高熱が続き、皮弁手術が予定通りのスケジュールで行うことができず、結果的に半年間という長期入院になった経緯があった。
しかし、今回は幸運なことに除去手術後は微熱程度で落ち着いていた。
先生の話だと、順調にいけば2週間後くらいに皮弁手術ができるとのことだった。
ただそう言われても、どうしても前回のことが頭をもたげてきて、また熱が上がるのではないかと疑心暗鬼になっていたのも事実である。
そんな不安を取り除いてくれたのは、今回初めての病棟となった3病棟の看護師さんたちだった。
前回の5病棟のときの看護師さんたちも、いつも明るくて気持ちを前向きにさせてくれる人が多かったが、それをさらに上回るかのようにそれぞれの看護師さんたちは気さくで活気に溢れていて、ケアの面も年齢問わずしっかりしていた。
検温のときは、ちょっとした雑談をするのが毎日の楽しみになり、他愛もない話をすることで気は紛れていた。
その間に熱も平熱に戻り、入院してから1週間経った段階で、先生からさらに1週間後に予定通り皮弁手術を行うということを告げられた。
今回は左足太ももの一部の組織を移植するということになったのだが、前回よりも切り取る部分の面積は小さく、その説明を受けて安心感が増してきた。
そして、手術まであと3日となったある日のことだった。
お昼下がりの時間だったろうか、少しうとうとしていると「三浦さん」という女性の声がカーテン越しに聞こえてきた。
いつも来ている看護師さんたちの声ではなかったので、一瞬誰だろうと思った。
とりあえず眠たそうな声で「はい」と生返事をすると、その女性がそろりそろりとそのカーテンをスライドさせた。
Hさんだった。
思わず私は笑顔になった。
「先日のメールでだいぶ熱も下がったと聞いたので、たぶん大丈夫かなと思いお見舞いに来ました」
Hさんも笑顔でそう言うと、私の症状のことについて色々と聞いてきた。
サスケ工房に入ってから突然のことでもあったので、Hさんとしてもほんとうに驚いたとのことだった。
私はHさんに仕事に復帰できるのかどうかについて、少し不安があると正直に吐露した。
するとHさんは、サスケ工房のみんなも心配しているということを伝えてくれたうえで、
「三浦さんは事業所のムードメーカーなんで、私たちとしても寂しいです。みなさん、三浦さんのこと待ってますよ。仕事のこともいろいろ気になるかもしれませんが、今は焦らずしっかり療養に専念してくださいね」
と言ってくれた。
その言葉だけで、何か力が湧いてくるのを感じた。
その後もHさんは、事業所での様子をいろいろと楽しく話してくれた。
手術前に少しナーバスになっていただけに、Hさんのお見舞いのおかげで随分と心が軽くなった。
度重なる手術
そして、いよいよ手術当日を迎えた。
この日は3~4時間かかるとのことで、万が一何かあってはいけないということで、妻も駆け付けた。
幸い全身麻酔でなく部分麻酔で行うとのことで、その点だけでも気は楽だった。
おそらく先生のお気に入りだろうと思われるJポップのBGMをやや控えめな音量でかけながら手術は始まり、その間は手術台の上でうつ伏せになり枕を支えにして顔をずっと伏せていた。
途中、何度も助手の看護師さんから「しんどくないですか」と声をかけられた。
背中越しに聞こえてくる先生のつぶやきや、手術中のいろんな音から、なんとなく今どの状態にあるかを自分なりに想像したりもした。
2時間くらい経過した頃だろうか、先生から声をかけてきた。
「手術前に説明させていただいた通り、今のところ順調ですので安心してくださいね。あともう少しですから」
先生からのその言葉で私はすっかり落ち着いていた。
その後も問題なく予定通り手術を終えることができた。
終わってみれば、思っていたよりも早く感じられた。
病室に戻ったあと1時間くらいしてから先生が来て、実際に皮弁をした箇所の写真画像を見せてもらった。
葉っぱのような形状で手のひらもないくらいの大きさだったが、あの忌まわしい褥瘡は見る影もなかった。
先生の話ではあと1か月から1か月半を目途に退院はできるだろうということだった。
しかし、1週間経ったときに不測のことが起こった。
その日の午前中の先生の回診で、なぜだかわからないが縫い跡の一部が裂けていることが発覚したのだ。
この1週間は、もちろん座位は禁止で寝返りを打つこともなく一切体を動かすこともなかっただけに、これには動揺した。
さすがの先生も焦った様子ではあったが、急遽その日のうちに再手術を行うことになったのだ。
手術自体は前回の半分もかからないもので終わったが、完全に閉じるのではなくドレーンという管を通し、体内に溜まっている血液、膿をしばらく放出させるような緊急処置を施されることになった。
前日までは、復帰のことを前向きに考えていたので、ここに来て急に新たな不安が押し寄せてきた。
決して先生に対して悪く思うようなことはなかったが、前回同様なぜ順調に事が進まないのかということについて徐々にいら立ちのようなものも芽生えつつあった。
社長からのお見舞い
唯一の救いは、手術後に多少反応するレベルの微熱程度で収まっていたことだった。
Hさんにもメールで再手術をしたことを報告し、当初の予定より半月ほど入院が伸びそうだということだけは伝えていた。
しかし、「大丈夫だ」という気持ちと「ほんとうに大丈夫なのだろうか」という不安がほぼイーブンに近い感覚で、私の心の中で交錯していた。
例によってひたすら天井を見つめ続ける日々が続いた。
そんな心境が続く、日曜のある日の午後のことだった。
「三浦さん、三浦さんいますか」
日曜の午後は特に検温以外、先生の回診もなくいつものように昼寝をしていたのだが、カーテンの先から少し低く響くその男性の声で一瞬で目が覚めた。
「はい、三浦です」
咄嗟にそう返した。
すると、その男性がカーテンを開いた。
白石社長だった。
「三浦さん、Hさんから手術のことなどいろいろと聞きました。たいへんでしたね、ほんとうに」
わざわざ休みの日を割いてまで、利用者である私のために社長自らお見舞いに来られたということに驚きつつ恐縮した。
そして、社長は手に持っていた大きな箱を私に差し出した。
「これ、ケーキ買ってきたんですけど、もしよかったら看護師さんか奥さんに介助してもらって食べてください」
その心遣いがほんとうに嬉しくてたまらなかった。
「白石社長、お忙しいのに私のために貴重なお休みを潰してしまって申し訳ないです」
私がそう言うと、社長はニコニコと子供っぽい笑みを浮かべながら
「いやいや、休みの日はたまにゴルフ行くくらいですから」
と言い、その後ゴルフの話や共通の趣味である将棋やギターなどの話までしてくれた。
気がつけば1時間近く話していただろうか。
最近はTさんという図面指導者が登場したことによって、普段社長と接する時間は稀なものになっていた。
それだけにこのお見舞いには、私にとっても何か特別なものに感じられた。
ひとことで言えば贅沢な時間だった。
一利用者である立場の人間に、会社のトップの方がお見舞いにくるなどということは、自分の頭の中で想像もできないことだったのだ。
「三浦さん、今は焦らずゆっくり治療に専念してください。復帰されたらまたいろいろ話しましょう」
帰り際に言った社長の言葉がまた嬉しかった。
社長が立ち去った後ふと気がつくと、さっきまでの不安は完全に消えていた。
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。