コラム

第23回 繰り返す褥瘡

社会とのつながり

実務が始まってからは、Tさんへ質問する機会も増えてきた。

在宅だとどのタイミングで質問をしていいのか躊躇することもあったが、実務となると責任が伴うので、その場で解決しないといけない内容については遠慮せずスカイプ通話をした。

Tさんは毎日私以外の利用者からの質問にもその都度答えないといけないため、かなり忙しい状況になっていた。

そのため、私が通所する木曜日に合わせて利用者全員参加で毎週実務勉強会を実施することになった。
他の人からの質問によって気づくことなどもあり、全員で共有するやり方は非常に効率的で有意義なものとなった。

その甲斐もあって、初めての実務は納期通りに全員が提出することができたのだ。

そこで私はTさんにこれからも定期的に実務はあるのかを聞いた。

するとTさんはいつものようにニコニコ笑みを浮かべながら
「1週間後には次の作業が降りてくるはずです。白石設計にはできるだけ仕事をもらえるようにはお願いしていますので」と言った。

親会社である白石設計から仕事がもらえるというのは、ある意味サスケの強みとも言えた。

以前、白石社長から聞いた話では、猫の手も借りたいくらい仕事はどんどん入ってくるとのことで、逆にクライアントの依頼を断らないといけないと言っていたことをふと思い出した。

私たちサスケ工房の利用者がどこまでその状況に対して貢献できるものかは全く想像もできなかったが、親会社から切り出された部分を請け負うことで、何かしら役に立つのであればと思ったものだった。

次の実務作業もやはり別の物件の仮設記入作業だったが、仮設といってもかなり多くの種類があるため、毎回新鮮な気持ちで取り組むことができた。

また、どの物件も東京都内のものだったことが印象的だった。

愛媛の片田舎でありながら、請け負う仕事が大型物件を扱うことが多く、それだけで何か誇らしい気持ちになったものだった。

それは間違いなく、社会とつながっている感覚だった。
どんな小さな作業だったとしても、何かしら誰かのためになっているのだと思うだけで、嬉しさが込み上げてきた。

この感覚は、障がいになってから初めてだったかもしれない。

いや、障がいになる前にしても、日々営業の数字を上げることだけに邁進していただけで、社会とのつながりを実感することはなかったかもしれない。

つまりサスケ工房の実務を通じて、仕事が出来ることのありがたさを初めて感じたのだ。

悪い癖

2014年4月に入ると、息子が地元新居浜の高校に入学した。

私の母校でもある高校だったので、その点でも嬉しかった。

「周りは優秀な子ばっかりなんやから、しっかり勉強してついていけよ」

息子にそう言うと、本人から想定外の言葉が返ってきた。

「父さん、高校でも野球するけんね」

まさか、高校に入ってまで野球をするとは思っていなかったので、思わず「えっ」となった。

聞けば野球部の練習はいつも遅く、帰りはなんだかんだ20時から21時くらいになるという。

高校野球は、中学までの部活とはまるで違って、監督の指導もかなり厳しいという噂だった。

息子は一度やると言い出したら、なかなか引っ込めない性格であることもわかっていたので、しぶしぶそれを受け入れざるを得なかった。

しかし、元々野球のセンスもない子だったので、たぶんいろいろとしんどい思いをすることは容易に想像できた。

親の立場としては勉強と野球の両立ができるのかどうかが心配だったが、本人が選んだ道である以上、尊重してやらないといけない。

私個人としても、実は大の高校野球ファンでもあったのでそうとなったら逆に全力で応援してやろうと思い直した。

しかし、このとき息子の選んだ道は、後に私も本人も予想を超えるほどの試練を受けることになるのだが、そのことはまた折に触れて伝えていきたい。

実務のほうは、4月以降も順調に次から次へと白石設計から指示が降りてきていた。
作業待機の時間もだんだん狭まってきて、練習だけをしていた頃に比べると毎日の充実感が俄然高まっていた。

特に、Iさんとは実務の内容についてよく利用者間でやりとりもさせてもらった。

当時多くの利用者がいたが、なかでもIさんとは作業に対する意識レベルが近く、お互いそのことで話し出すとあっという間に時間が経っていた。

そのやりとりのなかで勘違いしていたことの気づきもあった。

一度、その勘違いにより一通りやった作業データをまるごとやり直すなどというようなこともあった。

そんな状況で実務にどんどんのめり込んでいったため、ついつい時間を超過してまで作業をすることが出てきた。

ちなみに、与えられた物件には当然納期があり提出期限があったのだが、割り当てられた作業量としては日々の時間内で無理なくこなせるレベルではあった。

しかし、私の性格的なところもあり、少し気になったところについてはその日のうちに終わらせておきたいというような意識が働き、また在宅がゆえにずるずると引っ張ってしまうという悪い癖が出だしたのだ。

繰り返す褥瘡

お尻の褥瘡については、1年前の入院がきっかけで、週に1,2回は妻に新たにできていないかを見てもらっていた。

しかし実務が始まって以降の1~2か月も特に問題はない状況だったので、喉元過ぎればなんとやらで、褥瘡に対する警戒心が徐々に薄れてしまっていた。

そして5月に入ってからのことだった。

ある日、いつものように妻にお尻を見てもらうと、1年前の手術痕にやや小さな褥瘡ができてしまっていたのだ。

「毎日、座り過ぎとるんやない。また繰り返すよ」

妻からそう言われて、前にも同じようなことを言われたことを思い出した。

前回はそこでも割と強情な態度を取ってしまったのだが、さすがに今回は自分でもこれ以上悪くなったらまずいと思ったので、毎日必ず点検をしつつ横になって除圧する時間を取るようにした。

その意識を持つことで、それ以降はしばらく悪化するような様子はなかった。

しかし仕事をしている以上、平日はそれなりに座らないといけないこともあり、完全に閉じるまでには至らなかった。

通院時に先生には、「今のままを維持していれば、特に去年のようなことにはならないので、十分除圧管理をしてください」と言われた。

ほんとうは週末には、息子が入部したばかりの野球部の練習試合などにも見に行きたい気持ちがあった。

ただ1年前に入院でしんどい思いをしたことを考えると、自分でも意外なくらいあっさりとあきらめがついた。

「今はとにかく再発を防止することを第一に考えよう」
その意識を一日足りとも忘れることなく、また作業の時間超過も絶対にしないように過ごした。

それでも一度できた褥瘡はしぶとかった。
滲出液も微量ではあるが出ていたので、毎日の作業は常に爆弾を抱えながらの感覚だった。

そして、5月の最終週の月曜日のことだった。

朝、起きるとあきらかに体のだるさを感じたのだ。

まるで一年前と同じ感覚だった。

気のせいであってほしいと願ったが、その現実から目を背けるような状態ではなかった。

「褥瘡は悪化していないはずなのになぜ」
一瞬疑問がかすめたが、すでに観念している自分もいた。

すぐに体温を測ったが熱はすでに38度を少し超えていた。

とにかく病院に行くしかない。

Hさんに連絡をした後、妻と一緒に病院に向かった。

車中ではもう何も考えられなかった。

まさに、まな板の上の魚のような心境だった。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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