コラム

第17回 再び忍び寄る敵

模型製作が取り持つ輪

3月に入ると、さらに新しい利用者が3人増えて全員で13名となった。
加わった3人はいずれも男性だった。

車いすのOKさんはHMさんからの紹介ということで、しかもMさんとも同世代で、ツインバスケットという地元の車いす競技団体のチームメイトということだった。

以前からOKさんのことを知っていた職員のKさんによると、昔はちょっとヤンチャだったが、今はすっかり丸くなったとのことだった。

「祭りで転落してこうなってしもたんよ」
OKさんは、同じ車いすの私にそう笑顔で言った。

また、家だと車いすに頼らず床を手で這ってお風呂場まで移動するなどというワイルドな様子まで聞けた。
そんな生活が可能なのかと、同じ車いすの立場としてまたもやカルチャーショックを受けた。

後の2人はYUさんとYAさんで、お互い友人の関係で年齢は私にも近かった。
お昼休みや休憩のときはいつも二人は一緒で、ずっといろんな話をしている様子が微笑ましかった。

聞けばYAさんはかなり優秀な学歴で、また超エリートの企業に勤められていたという経歴であり、何がどうなってここに来たのだろうということがずっと不思議だった。
あまり深堀して聞くこともできないが、統合失調症を患っているということだけは本人からの説明で知ることが出来た。

利用者が増えれば増えた分、また違った障がい、人生ドラマがあるのだということをあらためて痛感させられた。
しかし事情は違えど、巡り巡って最終的に行き着いた場所がサスケ工房だという共通点のみで、ごく自然に仲間意識が芽生えたものだった。

私もHさんからの発案もあり、週に1回は他の利用者と同じ弁当を予約注文し、みんなとご飯を食べてから午後自宅に帰るようにした。

そして、今でも当時のことで印象に残っているのが、鉄骨造の図面解説テキストに付録でついていた型紙での模型製作だった。
つまり2階建ての建物模型を作り、鉄骨構造の理解を深めようということだった。

早速2班に分かれて、私はMさん、Nさん、YUさん、Mさんの同世代で同じ養護学校だったという松葉杖のKWさん、同じくMさんと同世代で女性のOYさんの6人と同じチームになった。

模型製作とはいえ、全ての寸法が正しくなければ実際の建造物同様しっかりと作ることができないわけで、柱や大梁、小梁、ブレースなどの各部材のチェックを入念に行ったことが懐かしく思い出される。

そして、その部材をアンカープランという基礎・土台のところから徐々に上に向かって組み合わせていくのだが、みんなでわいわい言いながら、作っていくのが何よりも楽しかった。

完成した時はみんなで笑顔になり、より結束が固まったことを実感したものだった。

プロから学べる環境

5月に入ると利用者の人数も増えたということで、新たにTさんという以前の会社でずっと鉄骨図面の仕事をしていたという経歴の方が、私たちの指導職員として入社された。

実は4月くらいからTさんはたまにサスケ工房に顔を出していて、最初はKさんや白石社長の知り合い程度の方が、ふらっと立ち寄っただけくらいなのかなと思っていた。

その割には、たまに私たちの作業をみてアドバイスをしてくれたので、職員として挨拶があったときは、そういうことだったのかとすぐ合点がいった。

Tさんは私とほぼ同世代だったが、いつもニコニコとして人当たりが良く、しかも教え方が抜群にわかりやすかった。
特に私を含めてある程度進んだ初期メンバーにとっては、鉄骨造に関しての本格的な理解が必要となる段階だったので、Kさん以上の専門知識を持った指導者がやはり必要となるタイミングでもあったのだ。

このあたりから、白石社長が直接講義をすることもなくなった。
つまり、これからの指導についてはCAD基本操作の対応をKさん、鉄骨専門分野についてはTさんに一任するという体制となったのだ。

そしてもうひとつ大きなこととして、Tさんが入られた後くらいから2階にいる白石設計の社員の方が下に降りてきて、日替わりで講義をしてくれたことがあげられる。

第一線で活躍しているプロの社員の方から直に教えてもらえるなどとは思ってもみなかったので、この機会にいろいろと質問をぶつけようとさらに貪欲さが増した。

選抜された6人ほどの社員の方からそれぞれの切り口で教えてもらったのだが、面白いことにCAD操作の活用方法については人によって微妙に違っていたことと、普段使わない機能については社員であっても未だにわかっていないということだった。

つまり人によってスタイルが異なっていいのだということがわかり、それぞれのやり方から自分にとって使い勝手のよい方法を組み合わせていけばいいのだということに気づかされたのだ。

私が社員の方が知らない機能のことについて質問をしたときは、本人や横にいた白石社長からも、「案外知らないこともあるので、逆に教えてもらって参考になります」と言われたこともあった。

そしてKさんからは、今回の講義で知ったことを私のほうで情報整理し資料としてまとめておいてほしいと言われたので、利用者と白石設計社員双方のものとして資料作成などもした。

再び忍び寄る敵

6月に入ると中学3年生の息子にとって、野球部としての集大成となる総体が目前となっていた。

息子のことについては以前にも触れたが、私の障がいが原因で小学生時代に十分な野球経験をさせてやれなかったことが当時後悔としてあった。

中学に入って、待望の軟式野球部に入部したものの、やはり小学生の頃からソフトボールや少年野球をずっとやっていた子ばかりのなかでは、なかなか思うように目立つようなことはなかった。

もうひとり息子と同じような立場の子がいたのだが、実は1年生の夏くらいまでは、その子と息子の二人は1学年上の先輩連中から半ばいじめのようなことを毎日されていた。

私がそのことを知ったのは、もうひとりの子の親からの先生への申し立てで発覚したことによってだった。

息子はその事実を親の私たちにはずっと隠していたのだ。

聞けばとんでもないようないじめの内容で、親としてはかなりのショックを受けた。

結果的にいじめていた主犯格の先輩たちは部活を辞めるということになり、当時の顧問の先生も交代するということにまで発展した。

そしてその後、息子は頑張って技術的には決して主力ではないものの、自ら志願してキャプテンにまでなった。

しかし、今度はそれまで小学生時代から仲の良かった同級生との間で、キャプテンという立場になったことによって不和が生まれた。

キャプテンとして言うべきことを言うことが、どんどんそれまでのお互いの距離を遠ざけることになり、最終的に息子はその子から喧嘩を仕掛けられた。

しかし、息子は全く手を出すことはなかったという。

一方的に殴られた後、息子はいつもの時間になっても家に帰ってこなかった。

心配になって先生に連絡すると、野球部で大騒ぎになり、その日の夜は全父兄が息子を探した。

結局、その日の22時過ぎに息子は帰ってきてなんとか事なきを得たものの、息子の口からその内容について語られるようなことはなかった。

想像できないくらいの心の傷を負ったはずだが、その後は総体に向けてなんとかチーム一丸となることができ、いよいよ最後の総体を迎えるまでにたどり着いた。

私に関しては、息子が2年生のときに褥瘡による大きな入院をしてしまったため、それ以降は部活の練習試合はほとんど行くことができなかった。
そういうこともあり、この最後の総体だけは親として、息子の勇姿を見届けたかった。

「明日はけっこう暑いし、なんだかんだ長時間座ることになるけどかまんのん?」
間際になって急に応援に行きたいといった私に、妻からはこう言われた。

その言葉で、最近お尻の褥瘡チェックをしていなかったということにふと気づき、念のため妻に特に異常はないかを見てもらった。

すると、妻はお尻を見るや否や「あれっ」という声を発した。

まさかとは思ったが、そのまさかだった。

1年前に手術をした右側ではない、左側の座骨部にわずかな大きさの褥瘡が出来ていたのだ。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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