数か月のブランクを経て、サスケ工房へは2016年9月から復帰した。
復帰という表現もこれで3回目となるのだが、私がいないうちに事業所の引っ越しが行われていた。
従来の場所から徒歩2~3分ほどのアーケード内の空き物件のところへ居抜き移転していたのだ。
新しい事業所の雰囲気は新鮮だったが、さらに驚くことがあった。
これまではTさんの指示系統で図面チェックの実務をしていたのだが、この4月から正式に職業指導職員となったFさんのチームに私も加わる話となっていたのだ。
つまりTさんがサスケ工房6事業所全体の責任者となった関係で、今後の新居浜事業所の主力物件の指導はFさんに引き継がれたのだったのだ。
すでにFチームには、選抜されたKUさんとYMさんが実務メンバーとなっていた。
二人とは業務上での接点がなかったのだが、非常に優秀で黙々と作業を進める寡黙なイメージの人たちだった。
それに加え私の場合は在宅中心ということもあったので、二人とコミュニケーションを取るタイミングも難しかった。
しかし実際にはチームと言っても、利用者間でのやりとりというよりは、職業指導員のFさんから作業が割り振られ、何か質問があるときはオンライン上でFさんに確認するという形だった。
新しい環境にやや戸惑いはあったものの、事業所にとって重要なチームに入れてもらえたことは嬉しかった。
Fさんについては、以前にも触れた通り私よりも後に利用者として入ってこられた方で、鉄骨図面に関する経験もなかったのだが、この時点ではすでにTさんに近いレベルで指導をされていた。
難しい内容についても、Fさんは非常に明快な説明をしてくれて、その理解力や説明力には感心するばかりだった。
そういうこともありFチームに関しては、次から次へそれなりのボリュームの作業が回ってくる状況となっていた。
いつもなら復帰後は徐々にカンを取り戻すようなペースだったのだが、今回ばかりはいきなりのフルスロットル状態で、実務が何よりのリハビリとなっていた。
「このチームならまたレベルアップできる」
そう確信し、徐々にモチベーションが高まりながら作業を進めることができた。
サスケバンド結成
Fチームでの仕事も順調な中、11月に入るとまた新しい人との出会いがあった。
週一回の通所の日に事業所に入ると、見慣れない光景が目に飛び込んできた。
50インチ以上あるのではないかと思われるデスクトップのモニター画面に向かって、拡大鏡レンズのヘッドセットを頭につけた男性がレンズ越しに画面をグッと近づけていたのだ。
職員のNTさんに聞くと、11月から利用者として新しく入った視覚障がいのMKさんという方だった。
これまでいろんな障がいの人たちと出会ってきたが、視覚障がいの人は初めてだった。
「音楽が趣味でベースを弾くそうですよ」
音楽好きの私なら必ず反応するだろうという意味で、NTさんがこっそりと教えてくれた。
私はそのまま迷うことなくMKさんに近づいて挨拶をした。
「初めまして、利用者の三浦と申します」
すると、MKさんはやや怪訝そうな表情でこちらを見た。
画面に集中しているところへ不意に声をかけてしまったのでまずいかなと思ったのだが、矢継ぎ早に「ベースを弾かれるらしいですね。私も音楽が好きでギターを弾くんです」と思い切って伝えてみた。
すると、MKさんは強張った表情から急に笑みを浮かべて「ああそうなんですね。私はMKと申します。よろしくお願いします」と返してくれた。
その後はお互いの音楽遍歴や好きなジャンルなどについて話に花が咲いてしまった。
話しているうちに、ちょっと私とは次元が違うことに気づかされる。
年齢は私よりも一回り上の世代の方だったのだが、有名国立大のジャズ研出身で、ほぼセミプロレベルで活動していたことなどもわかったのだ。
また過去の仕事については、障がいになるまで大手電機メーカーの基礎研究部門でバリバリ働いていて海外赴任などの経験もあるとのことだった。
つまり、私のように障がいは突然発症したのだという。
さらに二人の共通点として、苗字と名前でそれぞれ一字ずつ同じ漢字だったりと、色んな意味で親近感が湧いてきた。
そして私はふとあることを思いついた。
「MKさん、もしよかったら来月にサスケの忘年会があるんですけど、そこで社長と一緒にバンドでやりませんか?」
唐突な私の提案に、さすがのMKさんも驚きを隠さなかったが、「やるのは全然いいですけど、ドラムが叩ける人がいないとね」と返してきた。
そこで私は、同じフロアにいたB君をすぐさま呼んだ。
実はB君が学生時代にドラム経験者であることを知っていたのだ。
B君にバンドのことを伝えると若くてノリがいいこともあって、二つ返事で承諾を得た。
そうとなったら、後は社長だ。
すでに昨年社長とギターデュオをやったことから、私のなかでは社長が喜ぶ顔がすぐ目に浮かんだ。
そして施設長のHさんが社長に確認を取ってくれて、その電話が終わるや否やに私たちの前に来てこういった。
「社長に伝えたら、めっちゃ嬉しそうだったよ」
サスケバンドが結成された瞬間だった。
出会いの妙
社長のOKが出たことで、忘年会までの約1か月間のなかで急遽バンド演奏の準備をしなければならなくなった。
忘年会司会進行・幹事のKさん(以前は新居浜事業所職員だったが、この時点では西条事業所職員となっていた)に確認をしたところ、各事業所でも出し物があるのでバンドの出演時間としては10分以内にしてほしいとのことだった。
それを念頭に社長へ歌いたい曲をヒアリングした結果、「糸」(ミスチル桜井さん率いるBank Bandバージョン)と「蕾」(コブクロ)の2曲で準備することが決まった。
MKさんはベースがメインではあるものの、エレキギターや電子ドラム、そしてライブ用の大型スピーカーまで、すべて自前で準備が出来るような機材を揃えられていたので、私もB君も担当楽器を借りて練習することにした。
MKさんの凄いところは、その2曲について自宅練習用のデモ音源(各自のパートの分だけをマイナスワンにした状態)まで作られたことだった。
MKさんにとっては当たり前のことなのかもしれないが、私にとってはカルチャーショックだった。
仕事と同じかあるいはそれ以上の熱量で、音楽に向き合う姿勢には感銘を受けた。
ただ、その熱量は時としてマイナスに働く面もある。
あるとき3人によるスタジオでの合わせ練習の際に、B君のドラムの叩き方に対して、MKさんが次から次へ注文をつけ、その厳しい要求にB君がキレてしまったことがあった。
なんとかその仲裁に入り事なきを得たが、忘年会当日までたいへんだったことは、今となっては懐かしい思い出だ。
ただMKさんというレベルの高い人の存在のおかげで、わずかな期間ではあったがそれなりのクオリティに仕上げることができた。
多忙の社長にはあらかじめ3人による演奏音源を渡し、本番前の2回のリハーサルまでに自己練習をしてもらうようにした。
また、事前に社長からは当日のMCと各曲の2番は私に歌ってほしいという要望があったので、前の日までにしっかりと準備をした。
そしてその2回のリハーサルも無事に終え、いよいよ忘年会当日を迎えた。
まずオープニングのMCで、サスケバンドがワールドツアー中で昨日まで3DAYSの武道館ライブだったとホラを吹いた後、メインボーカルの社長を後から登場させ、大袈裟に紹介し皆を笑わせた。
途中、私のパートで歌詞が飛ぶというアクシデントはあったが演奏自体は概ねうまくいき、社長も低音のきいた伸びやかな歌声を披露した。
演奏が終わると約200人近くいる人たちから大きな拍手を受けた。
席に戻るとたくさんの人から「本格的な演奏で驚いた」「すごくよかったよ」などと言ってもらえた。
最後には社長とMKさんそれぞれのところに挨拶に行き、「来年もまたやりましょう」と言って固い握手を交わした。
MKさんがサスケ工房に入ってきてくれたからこそ、このような経験につながったのかと思うと、人との出会いの妙を感じずにはいられなかった。

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。