コラム

第5回 故郷新居浜へ

会社への複雑な思い

部長からの回答を覚悟していたこともあって、車いすで働きたいという希望が通らなかったことに対して動揺はなかったが、それよりも部長が頭を下げて私のために泣いてくれたことの驚きのほうが大きかった。

部長の涙につられてしまい、私も思わず目頭が熱くなり、しばらく言葉に詰まってしまった。

しかし、希望が通らない場合は潔く会社を去ろうと考えていたので、その回答に対して変に抵抗を示すことはせず、少し落ち着いてから辞める時期についての確認をし合った。

そして会社に勤めて丸15年が経つ2009年3月末でという話になった。
出来れば解雇してもらいたかったが、会社側としてはそういうわけにもいかず、結局は自己都合退社という話で折り合いをつけた。

そのことについて複雑な思いがなかったと言えば噓になる。

働き続けたいという気持ちがあるのに、自ら進んで辞めるという形になったことへの矛盾。
部長や支店長のような立場であれば、もしかしたら結果は違ったのかもしれないという想像。
そして、社長は果たして本当にこのことを知っているのか、知っているとしたらどういうお気持ちなのかという純粋な疑問。

ただ、それらの感情を自分の中であまり露にはしたくなかった。
それは、これまでに直接関わってきた会社の人たちとの様々な良き思い出までを色褪せさせてしまうことにもなるからだ。

15年という長い間、良くも悪くもこの会社で私は育った。

営業という仕事の中で、人との関わり方の多くを学び、無我夢中になる経験を幾多もさせてもらった。
妻ともこの会社で出会い、そのおかげで今の家族3人がいる。

それらのことに関して決して後悔はないし、むしろ感謝の気持ちのほうが圧倒的に多い。

回想すればするほど、私の心には「立つ鳥跡を濁さず」の言葉が駆け巡るだけだった。

父との電話

会社を辞めることを決めた数日後に、愛媛にいる両親にそのことを電話で伝えた。

父は、今回の会社の対応に対して憤りを隠さなかった。
しかし、私はそんな父を説得する側にまわった。

「父さんの気持ちはわかるけど、会社としても社員が障がいになった場合のことなど想定もしていなかったし、福祉やボランティアの会社ではないからね」

今でこそ障がい者のための特例子会社ができているが、当時はまだそのような考え方自体がその会社にはなかったし、私自身も認識がなかった。

ある意味、父の主張は正しかったが、先に触れたように変な禍根を残すこと自体を私は避けたかったので、その点でお互いの意見はどこまでも平行線だった。

また話の流れで、再手術をせず今後は車いす生活をしていくということについても話が及んだ。
父としては、リスクがあるにせよ理論上は再起の可能性があるのであれば、諦めてほしくないという思いがあった。

私には私なりの考え、逡巡を経たうえでの結論だったので、何とかその思いを理解してもらおうとしたが、電話越しということもあるせいか、なかなかその思いの距離が縮まらなかった。

気がつくと私は声を荒げて、半ば言い争うようなやりとりにまでなってしまった。

お互いの声が被さるような応酬のあと、にわかに父の声が震えだした。

「出来るんなら、秀の体に代わってやりたい」

唐突に発した父のその弱々しい震えた声、それに続いた嗚咽は今までに聞いたことがなかった。

私はそれで、はっとなった。

父親として息子を思う気持ち、仮に私の息子が今の私の立場だったとしたら、父親である私はどんな感情を抱いただろうか。

後から聞いた話だが、手術後に両親が群馬から愛媛に戻る際に、高崎から上野までの新幹線での約1時間、ずっと二人で泣き続けていたという。

そんな両親にとっては、遠く離れた地で障がいになったまま会社も辞めなければならなくなった息子のこと、そして息子の妻や孫のことが心配でたまらなくなっているのは当然だった。

そして、私はその電話を切った後しばらく考え、退職と同時に群馬から愛媛新居浜に帰ることを決意した。

故郷新居浜へ

私は、高校卒業までの18年間、愛媛県新居浜市で育った。

その後は大学進学や会社の転勤の関係で各地を転々としており、障がいをきっかけにまた新居浜で生活するなどということは思いもよらないことだった。

次の仕事のことなどまだ一切考える余裕がないなか、ひとまずは退職となる3月末に新居浜へ引っ越しをすることだけを決めた。

それは、残りの人生を故郷で過ごす覚悟でもあった。

私だけの人生ではない。

息子にとっては小学5年生にあがるタイミングで、2回目の転校をしなければならなかった。
せっかく出来た仲の良い友達と別れる経験を、一度ならず二度もさせること自体が心苦しかった。
ただこれからは、気心の知れた友達と小中高まで一緒に居られる環境をつくってやりたかった。

そのための覚悟でもあったのだ。

その後2月に入って、私の退職を聞きつけた元上司や元同僚、同期、部下などからたくさん連絡をいただいた。

最後となる3月には、営業所のメンバーと東京から部長がわざわざかけつけてくれて、妻と息子も交えての送別会をしていただいた。
当時の所長や同僚の何人かは今でも年賀状のやり取りが続いているが、そのときの和やかな雰囲気が未だに忘れられない。

そして、最後の挨拶となったときに私は力強く皆の前で宣言した。

「これからは、故郷新居浜で第2の人生をスタートさせます」

そう言い残して、私たち家族3人は2009年の春に、群馬の地を後にした。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

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