コラム

第34回 最後の入院

最後の入院

2017年4月に入り、サスケ工房今治事業所が開所した。

これで愛媛県では新居浜、西条と合わせて3つ目の事業所となり、グループ全体では7事業所目となった。

5年前、少人数からスタートした当時のことを思うと、ほんとうに感慨深いものがあった。

また、親会社の白石設計についてはちょうど創立20周年を迎えていて、年末には全グループ合同での20周年記念祝賀会兼忘年会を盛大に行うという話も聞こえてきた。

まさに飛ぶ鳥を落とすかのような会社の勢いは、毎年入院をしていた私にとっても刺激になっていた。

5月に行われたHさんと相談支援員とのモニタリングでも、やはり私の体調面がフォーカスされた。

「三浦さんは、とにかく入院をしないことです。特にこれからの夏場は要注意ですよ」
Hさんが笑いながらそう言った。

個別支援計画の目標も、業務面よりもまず体調管理という点に重点が置かれていた。

「今のところ褥瘡も出来ていないので、今年こそ大丈夫です」
力強くそう言ったのだが、Hさんからは「油断大敵ですよ」と釘を刺されてしまった。

そして、その矢先のことだった。

6月に入って、そのまさかの体調異変がまたもや起きてしまったのだ。

作業中に微かな体の怠さを感じたので、慌てて熱を測ったのだが平熱だった。

しかしそれで安心せず、すぐに妻にお尻を見てもらったところ、特に腫れたりはしていないが、右側よりも左側がほんの少し熱いような気がするということだった。

それを聞いてすぐに、1年前と同じ蜂窩織炎かもしれないと悟った。

まだ今なら症状は軽いはずだと思いながら、すぐに病院へ行った。

そして診断の結果は、やはり初期の蜂窩織炎ということだったのだ。

「おそらく、2週間ほど点滴をすれば大丈夫だと思います」
先生からのその言葉でホッとした。

モニタリングでHさんとのやり取りをした直後のことだっただけに、その点では残念ではあったが、このときはわずかの期間の入院で済むんだということの安堵の気持ちのほうが勝っていた。

5年連続の入院になってしまったので、本来であればもっとショックを受けるはずだっただけに、自分でも不思議な心境だった。

過去の苦い経験を踏まえて微かな異変に気づけたこと、早期発見をできたことを喜んでいたのかもしれない。

「おそらくこれが最後の入院になるだろう」
そう確信できた瞬間だった。

後輩からの刺激

2回目となる蜂窩織炎による入院だったが、予定通り2週間足らずであっさりと退院した。

おかげでこれまでのようにブランクを感じることもなく、すぐに図面の作業に復帰することができた。

私が所属しているFチームは新居浜事業所の柱だったこともあり、私が離脱しても業務に影響が出ないように、さらにチームメンバーを増やす話になっていた。

それまで他チームで作業をしていたGTさんや、図面のトレーニングを一通り終えたばかりのUE君も加わることになった。

これでチームメンバーとしては松山で在宅をしているYSさんと合わせて6人となった。

人数も増えたこともあり、チームとしてはこれまでよりも物件自体の作業ボリュームが多いものを受けるようになっていた。

必然的にチームメンバー間で、それぞれ割り振られた図面のなかで共有すべき事項について話し合うことも増えてきた。

その中で解決できないことについては、Fさんが全員をオンラインで繋ぎ、チームミーティングでその勘所について説明してくれた。

こうしたやりとりのなかで痛感したことは、図面チェックは紙に書かれた図面の中の情報のなかだけですべて判断できるものでもないということだった。

実際に建築現場で、どのような手順で、どの方向からその部材が組み立てられるのか、などの想像力も働かせていかないと判断できないケースも多々あった。

つまり机上の空論のようなチェックにならないよう、現場感覚も必要だと感じたのである。

その奥深さを感じつつ、他のメンバーに遅れまいと頑張った。

ここでFチームの最年少のUE君のことについても触れておきたい。

Fチームを通じて初めて実務を経験することになったUE君に関しては、まだ不慣れな面もあり、私も通所の際には彼の質問に答えてあげていた。

UE君は大人しく朴訥とした印象の青年だったが、Fさんの直接指導のもと、みるみるうちに成長していく様が伝わってきた。

つまりFさんの明快で的確な指導と、UE君の素直さからくる吸収力のかけ合わせが絶妙だったのだ。

例えばあるとき、私がチェックミスをしていた箇所をUE君に指摘をされたこともあった。

そのやりとりをそばで見ていたFさんに「三浦さん、うかうかしていられないですよ」と笑いながら言われてしまった。

体調面はようやく良好の兆しが見えてきたので、これからはチームから離脱することなく、業務のスキルのほうをもっとあげていけるようにしていかないといけない。

自分よりもずっとキャリアの浅いUE君の存在によって、その意識を持つことができたかもしれない。

A型利用者とは何か

2017年夏のある日、大学時代のゼミの後輩から、OB全員に向けてのメールが届いた。

何事だろうと確認すると、2011年に恩師・松岡先生の引退に合わせて行われた講演会兼OB会(「第9回 障がいになったことの意味」参照)以来の松岡ゼミOB会の案内だった。

そのときからすでに6年が過ぎていたが、松岡先生としては今回で最後にしたいということだった。

その理由については、ここ数年のうちに患っていた緑内障がだいぶ進行し、いずれは全く見えなくなってしまう可能性が高いので、今のうちにもう一度だけOB生と会っておきたいとのことだった。

松岡先生には2011年のとき以来、毎年のように電話などでいつも気にかけていただいていた。

その際にも先生の目の症状のことは聞いていただけに、今回の先生の思いは痛いほど伝わってきた。

すぐに妻に相談し、9月半ばに横浜で行われるOB会に参加することを決めた。

当日はあいにく天候が悪く荒れ模様だった。

台風がちょうど関東付近に近づいていたということもり、宿泊ホテルから会場のお店まで約10分ほどの車いすの移動はかなりたいへんだった。

会場に着くと、すでに大勢のOB生が集まっていた。

まだ先生の姿は見えなかったが、会が始まるまでの時間は同期のS君やI君、Kさんらと久しぶりの会話を楽しんだ。

その合間を挟むように同じ四国出身の後輩や当時親しくしていた後輩などが次々と私に「お久しぶりです」と声をかけてきた。

独立して起業をしているもの、勤めている会社で要職についているものなど、それぞれが輝いているように見えた。

そして皆から当たり前のように名刺を差し出されたときに、自分の今の立場を差し出せるような名刺がないということに気づいた。

サスケ工房で働いているとはいっても、利用者であるため当然ながら名刺などは存在しないのだ。

しかも自分の近況を話す際に、今の会社での位置づけを説明するとなるとうまく説明が出来なかった。

「A型利用者は会社員と言ってもいいのだろうか。」
普段のなかでは特に意識することもなかったが、突然命題を突き付けられたようだった。

そんなことを思っているうちに松岡先生がゼミの先輩に支えられながら、奥さんとともに会場に入ってきた。

先生は私に気づくと、嬉しそうだった。

「こんな悪天候のなか、愛媛から来てくれてありがとう」
と言って、私の手をギュッと握りしめてくれた。

その後しばらく先生と話をしているうちに、さっきまで戸惑いがあった今の自分の立場について堂々を話す勇気が湧いてきた。

そして会の半ばに、一人一人が順番に近況を兼ねたスピーチをすることになり、ついに私の番が回ってきた。

「サスケ工房という障がい者のためのA型事業所で利用者として働いています。主に東京都内の大型物件の図面チェックの仕事をしています」
胸を張って、そう言い切った。

株式会社白石設計&サスケグループ
サスケ業務推進事業部
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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