2019年4月に入ると、また新たな別れの話があった。
それは、サスケ工房新居浜事業所立ち上げ当初からの利用者であり、また利用者から事業所職員への第1号にもなったAさんのことだった。
以前のブログでも触れたが、Aさんは筋無力症という難病を抱えていて、常にマスクをして作業をしていた。
当時、利用者のなかでも年齢が若く、またCADの経験もあり、図面チェックに関する初心者向けのマニュアルなども作るなど非常に優秀な女性だった。
しかし、図面チェックの業務をしていくには体力的にしんどい面もあったので、3年目となる2014年11月に事業所パート職員に転身し([第25回 職員にもなれるA型事業所」参照)、その後は事務としてもダントツにレベルの高い能力を発揮し、大いに事業所に貢献されてきた。
そのAさんが利用者として入ってから6年が過ぎたこの年に、突然退職されるという話だったので、それを最初に聞いたときはほんとうに驚いた。
確かにここ1~2年は体力的な問題もあり、出社から在宅勤務に切り替えていたことは知っていたのだが、在宅であっても仕事を辞めなければならないほど体力に限界が来ていたことは想像できなかった。
Hさんの話では、当分は仕事から離れて体を休めることを優先するということだった。
Aさんのその苦渋の決断のことを思うと、古くからの仲間としてどうエールを送るべきかわからなかった。
そして、Aさんのサスケ工房での最後の日を迎えた。
この週は私の通所日を変更し、最後の別れに立ち会った。
朝礼でまずHさんからAさんのことについて説明があり、その後Aさんが皆の前で用意された手紙を読み上げながら最後となる挨拶をした。
「病気や障がいを抱えながら働くことの難しさ、それは私自身痛いほど日々感じてきたことなんですが、それらと向き合う過程で、私はHさん始め、多くのスタッフの皆さんにたくさんのご心配やご迷惑をおかけしてきました。そして、たくさん助けていただき、支えていただきました。本当に感謝してもしきれません」
Aさんが声を震わせながらそう伝えると、皆の前で涙を流した。
古くからの付き合いのあった職員や利用者の多くも泣いていた。
私もそのひとりとして涙を流さずにはいられなかった。
「私も皆さんに負けないように、こちらで経験させていただいたことを、今後の人生に活かしていけるよう、頑張っていきたいと思います」
最後に明日への希望を感じさせる言葉で締めくくられたので、少しホッとした。
Aさんにとってはこれからも多難の人生であることは避けられないかもしれない。
しかし何とか乗り越えてその先にある幸せをつかんでほしい。
その思いを、最後にAさんに伝えてお別れをした。
息子からの刺激
2019年は家族にとっても大きな動きがあった。
それは大学4年生になった息子のことだが、夏頃に本人からスーパーゼネコンと呼ばれている建設業界最大手の会社に内々定が決まったという知らせがあったのだ。
親としてもまさかそのような企業へ就職できるなどとは思ってもいなかったので驚いた。
と同時にたいへん感慨深いものがあった。
そもそも息子が建築関係に興味を持ったのも、サスケ工房がきっかけとも言える。
在宅で図面とにらめっこしてきた私の姿を見せ続けてきたことが、まさかこのような話につながっていくとは想像もできなかった。
そういう意味では私としてはこの上ない朗報だった。
電話越しの息子はすごく嬉しそうだった。
「あとは単位落とさずにちゃんと卒業せいよ」
息子には笑いながらそう返したのだが、それは冗談半分本気半分だった。
なぜなら、なんとなく伝わってくる話では大学にも行かずアルバイトに明け暮れているようだったからだ。
「でも父さん、その経験のおかげで、うまく面接でしゃべることができたからね」
息子はそのように茶化してきたのだが、実は息子のアルバイトとは建築現場での仕事だったのだ。
大学1年のときに学生寮の掲示板で貼られていたアルバイト募集のチラシがきっかけで、その後約3年間その仕事を続けてきたのだが、その経験が面接に活かせたとのだという。
それを聞いて妙に納得した。
思い返せば、息子のここまでの道のりは決して楽なものではなかった。
特に以前にも書いたように、野球を通じて中高時代は思うようにならない思春期を過ごした。
しかし、親であっても唯一息子にリスペクトできることとしては、苦しくてもひとつのことを貫いたことだった。
建築現場の仕事はある意味体力勝負だが、それは野球で培った体力と精神力によって3年もの間続けられたのかもしれなかった。
またそれらの過去の経験がすべてつながって自身の就職にまで結びつけられたのだとしたら、むしろ私自身が学ぶべきことのようにさえ思えてきた。
息子の就職は、私にとって間違いなく大きな刺激となった。
「自分も負けていられないな」
その思いと、だからといって今の私に何ができるのかという葛藤が心のなかで交錯していた。
社長からの何気ない言葉
12月に入ると、恒例のサスケ工房全事業所参加の忘年会の日程が発表された。
私にとっては余興準備を通じて、唯一白石社長と1対1で交流できる貴重な時期だった。
サスケバンド解散以降は社長とのギターデュオを復活していて、2019年も二人で何かやろうということになった。
そして選曲は、当時話題になっていた米津玄師さんのLemonに決まった。
ただ社長も多忙のため、会社が休みのクリスマスイブの日の夜に1回だけ音合わせをしようということになった。
今どきの曲でもあり、1回の練習でどこまで仕上げられるものは不安だったが、当日までに私がアレンジしたアコギ演奏録音データを社長に送って個人練習をしてもらうようにした。
そして、練習日当日を迎えた。
誰もいないサスケ工房新居浜事業所で社長と約2時間みっちりと練習をした。
毎回そうなのだが、曲の2番目は私が歌うということになり、最後は二人で歌うという段取りにした。
ある程度形になり4日後の忘年会はこれで行けるという確信が持てた。
そして練習を終えたあとは、そのまま社長と雑談をさせてもらった。
M-1で優勝した漫才コンビが面白かったという話や、今年一年でサスケ・アカデミーを3事業所にまで増やしたので来年以降も増やしていきたいという会社の話、また今話題になっているビジネスの話など多岐に亘った。
たまたま私も興味のある話題ばかりだったので、ついつい長話になってしまった。
そしてその会話の流れで社長が何気なく私にこう言った。
「三浦さん、図面以外でもいろんな仕事できそうな気がするね。営業とか広報とか」
それは単なる社長の感想だったと思うのだが、私にはとてつもなく嬉しい言葉だった。
思わず家に帰ってから妻にそのことを伝えてしまった。
そして、その後忘年会当日を迎えるのだが、ここでアクシデントが起こった。
なんと社長がインフルエンザに罹ってしまって忘年会に出られなくなったのだ。
まさかの社長不在という異例の忘年会となってしまったのだが、急遽社長不在を笑いネタにしながら歌も一人で歌い切り、なんとか余興は乗り切った。
そのように慌ただしいなか無事に忘年会も終え、やっと年末を迎えることができた。
休みに入るといつもなら終えたばかりの忘年会の余韻に浸るところなのだが、この年末は少し違った。
ふと頭に浮かんでくるのは、なぜか社長からのあの何気ない言葉だった。

サスケ業務推進事業部
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。