蜂窩織炎とは皮膚の深い部分で生じた感染症なのだが、健常者の場合は1週間ほどで治ると言われているものだ。
しかし、私のような重度障がい者で、しかもお尻に何度も褥瘡を煩わせている身にとっては決して侮れないものだった。褥瘡こそ出来ていないものの明らかに手術痕付近の皮膚が腫れていたのだ。
「内部で感染を起こしていて水が溜まっているようなので、このままだとさらに悪くなってしまいます。今すぐ切開して水を抜きますね」
先生からのその「切開」という言葉にショックを受けた。
そしてそのまま診察室のベッド上で、先生がその患部を切り始めた。
私の場合は元々下半身が完全麻痺しているためそのような処置も可能なのだが、診察室でのいきなりの切開処置にさすがに少し戸惑った。
私はその背中越しから伝わってくる切開時の電動メスによるジリジリという音やその匂いを感じとりながら、しばらく目を閉じて処置が終わるのを静かに待った。
そして約15分ほどして処置は終わった。
「やはり水が溜まっていて、小さなポケットが出来てしまっています。経過を見てどこかで手術をしないといけないので、またしばらく入院です」
わかっていたとは言え、はっきりと入院という言葉を聞くのは辛かった。
真っ先に頭をよぎったのは、息子の野球の最後の大会の応援に間に合うのかどうかだった。
「先生、今回の入院はどのくらいになるでしょうか?」
私からの問いに先生は少し笑みを浮かべながら、
「いつもよりは早く治療できるとは思います。そうですね、早ければ1か月半くらい」
その話でいくと、6月中になんとか退院が出来るかどうかの見込みだった。
高校野球の地区予選は7月の半ばだったので計算上は間に合う。
しかし、先生に息子の野球応援に行くなどと言ったら、絶対に反対されるということはわかっていたので、あえてその場では何も言わなかった。
これでついに、サスケ工房に入ってから4年連続の入院となってしまった。
まだ一度も1年以上続けて働くことができておらず、それを越えることが当面の目標だったのだが、今回もそのジンクスを断ち切ることはできなかった。
せめてもの救いは手術の程度がこれまでに比べると軽く、皮膚の移植手術までには至らないということだった。
その日の夜、病室から息子に電話をした。
4年連続の入院になったことを伝えると、「甲子園の出場みたいに言うな」と言って私を笑わせてくれた。
そのおかげでだいぶ気持ちがほぐれたように思う。
「絶対に予定通り治して、夏の大会観に行くから頑張れよ」と力強く息子に宣言をした。
すると息子はジミー大西さんの決め台詞のように「お前も頑張れよ」と言ってまた私を笑わせた。
最速の退院
その後の経過は順調で、ポケットの部分にしっかりと肉芽ができたことで1か月足らずで切開部分の縫合手術をすることができ、当初の予定通り6月下旬には退院することができた。
これまでのなかでは最速の退院となったので、いつも以上に清々しい気持ちだった。
先生からも仕事への復帰はこれまでと違ってすぐでもいいと言われていたのだが、Hさんとの話し合いのなかで、大事を取って8月からにしようということになった。
その一方で7月に入って間もなくすると、息子にとっては最後となる夏の高校野球愛媛県大会の組み合わせ抽選会が行われた。
息子の高校は7月中旬に今治球場で1回戦が行われることが決まった。
この期間はほんとうは自宅療養に専念しないといけないのだが、さすがにこの試合だけは観に行かないわけにはいかなかった。
幸い今までの中では最も症状が軽いということもあったので、試合以外の日は絶対に外出などは控えるということを妻と約束をし、応援に行くことを決めた。
そしていよいよ当日を迎えた。
1回戦の相手は下馬評では勝てるだろうと言われていた。
2年生エースS君の好投もあり、予想通り10-5というスコアで危なげなく勝つことができた。
しかし、息子については残念ながら最後までピッチャーとしての登板機会はなかった。
周りの父兄と一緒に喜び合うなか、少し複雑な気持ちの自分もいた。
その日の夕食は、息子もいつもより言葉が少なかった。
私もどう話しかけていいものか少し戸惑ったが、それを悟られないようにあえて冗談を交えながら次の試合のことなどを話した。
息子もそれには少し笑ってくれたのでほっとした。
次の2回戦は3日後で、しかも第2シードで過去に全国準優勝の実績もある超強豪校だった。
相手が相手だけに、もしかしたら1回戦以上に息子の登板機会の可能性は低いと思われた。
「この試合が息子にとって最後の試合になるかもしれない」
そう思うと、何か神頼みをしたくなるような気持ちになった。
せめて、これまでの3年間の努力が報われるような結果になってほしい。
試合の前日の昼間に、妻と一緒に地元の氏神神社に行って精一杯の願掛けをした。
悔しさをバネに
そしていよいよ2回戦当日を迎えた。 相手がシード校ということもあり、愛媛の高校球児にとっては憧れの場所、坊ちゃん球場で試合が行われた。
スターティングメンバーは1回戦と全く同じだった。
3年生7人のうちスタメンから外れているのは、息子を含めて3人だった。
そのうちまだ試合の出場がないのは、息子ともう一人の2人だけだった。
試合はやはり強豪校のペースで、さすがにエースのS君もかなり打ち込まれた。
4回が終わった時点で7対1となり、このままいけば7回までにコールド負けになってしまいそうだった。
そしてついに5回途中からエースのS君が下がり、ピッチャーの交代のアナウンスが告げられる場面がきた。
私はわずかな可能性として、息子の名前が告げられるのを祈るように待った。
しかし、無情にも息子の名前が呼ばれることはなかった。
結局他の2年生が登板し、その回をなんとか無失点で凌いだのだ。
その後6回表に入ると、下位打線のところでまだ試合に出場できていなかったもう一人の3年生が代打で出てきた。
この時点で、3年生のなかで出場がないのは息子だけになった。
実は前の日に息子から、ピッチャーではなく代打としてどこかで出すかもしれないという監督からの話があったことは聞いていた。
出来れば親としては、ずっと頑張ってきたピッチャーとしての姿が見たかったのだが、6回裏もそのまま二番手の二年生が登板した時点で、むしろ代打でもいいから出てほしいという藁をもすがるような気持ちに変わっていた。
そのためにもなんとかこの回を切り抜けてほしいと思いながら応援をした。
ただ現実は厳しかった。
二番手の子もついに捕まってしまったのだ。
相手からの容赦ない連打で瞬く間に10対1となった。
規定であと1点入った時点でコールドが成立してしまう。
後で聞いた話なのだが、実はほんとうに7回表に回れば、息子は監督から代打でいくぞと告げられていたのだった。
そんなことなど知りようもなかったが、ただ次の回に繋がるようにとだけひたすら願った。
しかし、その願いは叶わなかった。
相手に11点目が入ってしまい、7回を待たずして唐突に6回コールド負けとなってしまったのだ。
3年生たちの、そして息子の最後の夏が終わった瞬間だった。
応援団の前で選手たちが整列して挨拶をした場面では、父兄のほとんどが、そして息子を含めた3年生たち全員が涙を流した。
ただもしかしたら私たち夫婦と息子にとっては、その涙の質が他の人たちとは少しだけ異なっていたかもしれない。
「この悔しさをバネにして次に活かしてほしい」
そう思いながら、涙のせいで霞んで見えた息子の姿に、応援席から熱い視線を送った。

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。