コラム

第10回 突然の高熱

新たな仕事への準備

2011年6月になり、事務として働く予定の調剤薬局の新規オープンまで、あと1ヶ月を切った。

既存店舗での週1回の事務研修を終え、残りは完成したばかりの新店舗でオープン準備を行うのみとなった。
薬局事務独特の内容についてもだいぶ理解が深まっていたが、実際に事務作業をミスなくスピーディにこなせるものかどうかはやってみないとわからない怖さがあった。

今治市中央部にある総合病院からの処方箋を受けるため、それまでの研修とは比べものにならない量を捌いていかなければならないことが想定されていたからだ。

また、薬という人の病状を左右するものを取り扱うという意味においても、ミスは許されないという大きなプレッシャーも加わっていた。

そんななか、社長である親戚のMさんはいつも「周りに頼ってやっていけば大丈夫だから」と笑顔で励ましてくれた。
Mさんとはだいぶ歳が開いた従兄弟の関係ということもあり、直接的な接点はそれまであまりなかった。
ただ私の両親から、Mさんは若い頃から本当に心根が優しい人だということを事あるごとに聞いていた。
今回、一緒に仕事をするという機会を得て、そのことを身に沁みて感じることとなった。

新店舗での身障者トイレを最初のぞいたときは、その広さにも感激した。
Mさんは、他の車いすの来客用の意味もあるというが、紛れもなく私のことを第一に考えて用意してくれたものだった。
そんなMさんや周りのスタッフの方の数々の助言や優しさのおかげで、オープンが近づくに連れて徐々に不安を打ち消すことができた。

6月最後の準備を終えた帰りには、新居浜駅と今治駅の駅長に、7月から毎日通勤で電車に乗ることを伝え、毎回の補助のお願いをした。
発車時間の20分前に行けば、乗車までJR駅員が2人がかりで電車乗降時のスロープや階段昇降機の設置(当時の新居浜駅はエレベーターがなかった)などの対応をしてくれる確約を得た。
こうして、障がい者としての社会人デビューの準備はほぼ整いつつあった。

しかし、一つだけ気がかりなことがあった。
それは、約半年前にできた褥瘡が、依然として完治していないことだった。

褥瘡を抱えての事務デビュー

右側座骨部の褥瘡は、表面的には10円玉あるかないかくらいの大きさになっていた。

形成外科で診てもらったところ、傷の深さはまだ浅いとのことだったが、毎日新居浜から今治に電車通勤して、しかも長時間座りっぱなしの事務をするのであれば、除圧管理を気をつけないと現状より悪化してしまうという忠告を受けていた。
そのことは十分理解していた。

しかし今思えば、物事が着々と前に進んでいたため、褥瘡は気がかりではあったものの先生が言うレベルでの本当の危機感は希薄だったのかもしれない。
プッシュアップの除圧と塗り薬での感染予防さえ怠らなければ、現状は維持できるだろうと、たかを括っているところがあったのだ。

そんな状況で褥瘡を抱えたまま、ついにオープンの7月を迎えることになる。

当日の朝、いつもより早めに起きた。
緊張と期待が入り混じっていたが、いよいよ、今日から第二の社会人生活が始まるのだと思うだけで、何か特別な感慨があった。
息子からも「父さん、頑張れよ」と声をかけてもらったのが、何よりも嬉しかった。
息子はすでに中学1年生になっていた。
障がいになってから3年半経っていたが、その間父親として胸を張れるようなことは何一つ示せなかった。
息子の胸の内までは知る由もなかったが、多感な時期に一般の家庭と異なる環境を背負わせていたんだと思うだけで、これから少しでも取り戻していかなければと、より一層気が引き締まるのだった。

「行ってきます」

この言葉を言うのはいつ以来だろうと思いながら、家を出た。
そして初夏の朝の清々しい風を受けながら、意気揚々と駅に向かった。

突然の高熱

初日の勤務は、終始緊張していたが、特に大きな失敗もなく無事に終えることができた。
処方箋の予想以上の数に、多少動揺もあったが、少し手が止まったときは周りがすぐに察してフォローしてくれたおかげで事なきを得た。
夕方薬局を出たときには自分でもびっくりするくらい汗をかいていたが、なんとか初日を乗り越えたことに安堵していた。

帰りの電車の中で、ようやくデビューの1日を振り返る余裕ができたが、作業に集中するあまり、プッシュアップでの除圧をほぼ失念していたことに気づいた。

帰宅するなり、妻に褥瘡の手当てをすぐにしてもらった。
案の定、褥瘡を覆っていたガーゼには、いつもよりは多めの滲出液が染みていた。
妻からも「こんなに染みてるけど、毎日大丈夫なん」と言われた。
翌日が休みの土曜日であったことがせめてもの救いだった。
週末の2日間は食事と風呂以外はほぼベッドで横になり、少しでも褥瘡が癒えるように努めた。
勤務2日目となる週明けは、初日の反省から、多少プッシュアップを心がけた。

しかし作業が立て込んでくると心の余裕のなさからか、気がついたら1時間以上腰を浮かすことを忘れてしまっていた。
そんな状況を連日繰り返した。

そして仕事を始めてから5日目に不測の事態が起きる。
その日は朝の起きだちからなんとなく体の倦怠感があった。
おそらく慣れない仕事による疲れや緊張感からくるものだろうと思い、念のため体温計で測ると熱は37.3度を示していた。
もしやと思い、妻に褥瘡に変化がないか見てもらうと、褥瘡付近を触るとそれまでにはなかった熱さを感じるというのだ。
またどことなく全体に腫れている印象だと言う。
明らかに異変が起きていた。
頭もクラクラし始めたので、急遽Mさんに連絡し事情を伝えると、事務は他のメンバーでなんとかなるからすぐ病院に行くようにと言ってもらえた。
早速、妻と一緒に通院先の形成外科に向かった。
病院に着いて受診待ちの間に再度体温を測ったが、その表示に一瞬目を疑った。
熱はすでに38.8度までに達していたのだった。
動揺しているうちに看護師から呼び出しがあった。
中に入るとすぐに処置台にうつ伏せになって褥瘡の箇所を先生に見せた。

「これは即入院ですね」

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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