経歴
高校1年時、将棋高校選手権県大会団体の部で、母校として初優勝し全国大会に出場する。
当時の得意科目は日本史。
苦手科目は化学。
スポーツは中高とバレーボール部に所属。
神奈川へ大学進学後、同郷の恩師松岡紀雄教授のゼミを専攻。
海外広報論を軸に企業のCSR、フィランソロピー等の概念を学ぶ。
(同時に大学からギターを始め、軽音サークルでバンド活動に勤しむ)
22歳のときに将来的なUターンを見据えて、地元愛媛に本社がある食品会社に営業として入社。
長野で初赴任後、2年目に新規事業のグループ商社へ出向となり、愛媛本社に配属。
26歳のときに、同じ職場に勤めていた妻と結婚。27歳のときに、長男誕生。
33歳の係長時代、関東の大きい市場を経験するために東京支店へ配属。
翌年、群馬でナンバー2のポストに穴が開いたため、そのピンチヒッターとして急遽群馬に配属。
36歳の冬、新拠点予定の新潟での営業開拓も行い次のポストを目指していた矢先に、脊髄の先天性の病気を発症(脊髄動静脈奇形)。
リスクの高い手術に挑むが失敗。必死のリハビリも叶わず最終的に完全な歩行困難となる。
約1年の闘病生活のなかで再手術すべきかどうかの葛藤後に車いす生活を決断。
同時に障がい者手帳2級を取得。
37歳のとき、会社との話し合いの結果、自己都合退社を受け入れ、新居浜に家族3人で戻る。
その後約3年間、膀胱直腸障害、褥瘡などの二次障害も加わり、何度かあった再就職の話も断念する状況が続き、自暴自棄の毎日を過ごす。
41歳の冬、新聞にて白石設計・サスケ工房設立の記事を知り翌日に見学、将来への希望を感じる。
その場で福祉サービスの申請を決め、翌年より利用者として鉄骨図面チェックの仕事に従事する。
最初の5年間、褥瘡再発により入退院を繰り返すが、在宅中心に切り替え6年目以降体調が安定。
次第に会社への感謝の念が高まり、利用者ではなく社員として貢献し、恩返ししたいという気持ちに変わる。
社長に直接相談し利用者9年目にして福祉サービスを返上する。
50歳で一念発起し現職に就く。