コラム

第27回 抜け出せない負のスパイラル

新たな同士

取り合いチェックの作業となってからは、フロア増床で新しくできた部屋に指導員のTさんに加えて、親会社の白石設計社員も数人常駐する形となった。

チェック作業のために選抜された利用者はその部屋に集約されることになり、実務に至っていない利用者と完全に分けられた。

このことでA型事業所としての施設外就労体制が整い、限界に来ていた利用者の定員枠も一気に広げられた。

そのせいか春先以降から体験者も続々と増えてきた。
新居浜のような田舎でも、こうしたA型事業所を求める人が多くいることをあらためて実感させられた。

私は週に1回だけの通所だったので、通所時は作業よりもそういった新しい人とのコミュニケーションを優先した。

体験に来る人の事情はそれこそ千差万別ではあったが、一般企業で勤められない理由がそこには必ず存在していた。

4月から正式に通所することになったFさんは、地元では誰もが羨む大手企業でそれなりの要職に就かれていた方だった。

そのクレバーな話しぶりや穏やかな様子から、私はこんなこと聞いていいのかと思いながらも、Fさんになぜ会社を辞めたのかを聞いた。

「まあ色々あったんで」と少し濁しながらもその理由を打ち明けてくれた。

Fさんは片足が義足だったのだが、それは現場で起こった事故が原因で切断せざるを得なくなったとのことだった。
結局そのことをきっかけに会社との間でそれまでにはなかった軋轢が生じたとのことだった。

なぜ会社内で事故にあったFさんがそのような目に合わなければならなかったのか。

私はふと以前勤めていた会社のことを思い起こさずにはいられなかった。

私が障がいになったこと自体は会社側には何の否もなく、それこそ軋轢などはなかったが、最終的に個人の希望が通らず、解雇に近い形で自己都合退社をさせられた。

規模が大きくてそれなりの理念を掲げていても、現実は異なるという経験をした。

そのときのつらい感情は、サスケ工房という新たな居場所のおかげでもう完全に払しょくされていたはずなのに、Fさんとの会話のなかで一気に昨日のことのように思い出されてしまったのだ。

「もう収入が多いとか少ないとかの問題じゃないんですよね」
Fさんのその言葉は痛いほど伝わってきた。

私はすぐにその過去の嫌な記憶から、新たな同士が出来たのだという喜びの感情に置き換えることができた。

「私は週1回だけしか通所しませんが、何かわからないことがあれば遠慮なく声をかけてくださいね」
私がそう言うと、Fさんは嬉しそうな笑み浮かべ頷いてくれた。

我がことのように

この頃になると週末は土日のどちらかは息子の野球応援に妻と出かけるようになっていた。

練習試合が解禁となった春先以降は、息子は完投勝利をあげるまでに成長していたが、やはり制球にムラがあり、二番手投手として先輩エースの後塵を拝したままだった。

そんな状況のなか4月になり、息子も新学年の2年生となり、新1年生が13人も野球部に入部してきた。

中学時代から硬式野球チームで鍛えていた子も多く、レベルとしては息子たちの代よりも有望な顔ぶれだった。
しかも投手経験のある子が4人もいたので、これまでのようにエースの先輩だけを目標にすればいいというわけにもいかなくなったのだ。

親の立場としても正直なところ複雑だった。

5月以降は、投手経験があるということで、1年生のなかからも練習試合で登板する機会が与えられていたのだが、そのなかでも制球力が抜群でフォームも美しい子に目を引いた。

実はここでまた偶然の話がある。

その子の父親が、私がサスケ工房に入る前までリハビリ通院をしていたときの理学療法担当のS先生だったのだ。

一度、練習試合のときに顔を合わせたときは本当にびっくりした。
前回の同級生との再会の話といい、あまりにも世間は狭いと感じた。

「三浦さん、お久しぶりです。まさかこんなところでまたご一緒できるなんて」

「リハビリのときに中学の頃の息子さんのお話しをよく聞かせてもらっていましたけど、S君をじかに見ると本当にいいピッチングされていてびっくりしましたよ」
そのように、久しぶりの再会でエール交換をした。

それ以降、練習試合の応援に行かない日も、現地にいる妻には逐一lineを入れ、息子の状況はおろか他の1年生の子の内容までどうだったかを聞く有様だった。

「ちょっと気にし過ぎじゃない。まるで自分のことみたいに」
妻からそう釘をさされたが、私にとってはむしろ我がことのようになっていたのだ。

気がつけば練習試合に行く頻度、時間も増えていき、土日ともに出かけるようにもなってしまった。

しかし、皮肉にも息子の調子はそれに反して悪くなっていった。

ある試合で、1イニングも終わらないうちに降板し、そのあとを引き継いだS君が完璧なピッチングをしたときは、息子以上に気落ちをしていたかもしれない。

そのような状況のなかで5月の下旬を迎え、夏の県予選大会まであと1か月半と差し迫っていた。

抜け出せない負のスパイラル

ここにきて、またしても私の自己管理のなさが露呈してしまうことになる。

つまり、取り合いチェックの作業になってから、定刻時間を過ぎてもそのまま仕事を続けてしてしまうことも増え、さらに休日は息子の野球の応援に行く時間が増えたため、あっという間に褥瘡が出来てしまったのだ。

しかも、昨年一昨年と同様、またしても左側座骨部の手術痕周辺だった。

つい最近までは何もなかったという認識だったが、これだから褥瘡は本当に侮れない。

「こんな状態のまま、練習試合に顔を出し続けていたら、それこそ夏の大会に行けんなるよ」
妻は半ばあきれ顔で私を窘めた。

それは私としても本意ではなかったので、さすがに妻の忠告に従うしかなかった。

「次また手術となったら、それこそ移植する皮膚もなくなってしまうんやない」
追い打ちをかけるかのように浴びせられたその言葉にハッとなった。

それからは、毎日仕事が終わると必ず妻に褥瘡の点検と、感染予防の塗り薬を塗ってもらった。

この褥瘡を短期間で完治させるためには、2~3週間程仕事を休み、極力座る時間をなくすのが最善ということはわかっていた。

それが前回までにも痛感した結論だったのだが、昨年までの業務内容・量であれば、そうしたのかもしれない。

しかし、取り合いチェックがサスケ工房の中心となった今年(2015年)からは作業待機の時間も減り、次々と作業が来るようになったため、ついついその責任を感じてしまい、休むという決断を下すことができなかったのだ。

今にして思えば、自分がそのときに抜けたとしても、他のメンバーやTさんらで何とかしてくれたに違いないのだが。

週末こそ外にも出ずベッドで安静に過ごしたものの、仕事については情けない話だが、そのまま続けてしまったのだ。

当然のことながら、そうなると褥瘡はなかなか完治してくれない。

6月に入ると、ガーゼに吸い込まれる滲出液の量も明らかに増えていった。

もはや完全に負のスパイラルに入ってしまっていた。

もうここから先については言うまでもない。

6月初旬のある朝、ついに熱が出始めた。

サスケ工房に入ってからまだ一度も丸一年を越して継続勤務できていないのに、またしてもその課題を乗り越えることができなかった。

これで三年連続の入院となってしまう。

気持ちの上でも、今までの中で一番ショックが大きかったように思う。

それは、また同じことを繰り返してしまったことへの情けなさに加えて、息子たちの夏の大会への応援がほぼ絶望的となったからだった。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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