コラム

第36回 将棋による新たな縁

2018年になり、サスケ工房で6年目を迎えた。

毎年のように入院による業務離脱を繰り返しながらも、なんとかここまで続けてこられたので、今年こそはという思いは強かった。

しかしプライベートでは、息子が東京の大学に進学して以降、何かポッカリ穴が開いたような感覚があった。

つまり高校野球での応援が一つの張り合いになっていたため、それがなくなってからは休日は目的もなくダラダラと過ごすことが増えたのだ。

そんな状況のなか、新たな存在が私の心境を変えていくことになる。

その存在とは、当時プロデビューしてからまだ一年しか経っていないにも関わらず、連日テレビ等のメディアで取り上げられていた将棋界の寵児、藤井聡太さんのことだ。

実は私にとって将棋は小学生高学年からの趣味で、人生においてかけがえのないものだった。

しかし障がいになって以降はそれまでよく出場していたアマチュアの大会に出ることも諦めていた。

諦めていた理由は実力のことというよりも、むしろ車いすの姿で出場することへの引け目のような意識があったからだ。

仮に畳の上での対局会場だった場合、運営側にも迷惑がかかるだろうし、周りからの好奇な視線のようなものを勝手に感じて集中もできないだろうと思っていたのだ。

しかし、空前の藤井ブームがそんな些細な私の懸念を吹き飛ばした。

藤井さんの凄まじい活躍ぶりを目の当たりにし、純粋に「将棋って、やっぱり面白いな」と思わせてくれたのだ。

「5月に松山であるアマ竜王戦県大会にまた出てみようと思うんだけど」
妻にはたぶん体調面で反対されると思って恐る恐るそう言うと意外な返答があった。

「出てもいいけど、対局中でも定期的に腰浮かせんといかんよ」
意外なほどあっさりと承諾してくれたのでホッとした。

大会は当日受付で、まだ数か月先だった。

それからはしばらくホコリを被っていた棋力を呼び起こすために、インターネットで不特定の人と対局したり、プロの棋譜中継アプリを購入して観戦したり、最新定跡や詰将棋の棋書を買って読んだりと、生来の凝り性を発揮し始めた。

「えらい楽しそうやね」
その様子を見た妻からの一言で、あらためて将棋が自分には大切なものであることを自覚した。

久しぶりの大会出場

そして5月半ばの日曜日、大会当日を迎えた。

妻の運転で朝早くに新居浜を出発し、約1時間半をかけて開会式20分前に松山の会場に着いた。

私にとっては初めての場所だったのだが、ここでもしやと思っていたことが起こった。

対局会場がやはり畳のある和室で、また部屋の入り口も上がり框による段差があったのだ。

入り口前での受付の際に運営のKJさんが慌てた様子で、「三浦さん、多少歩くことは出来ますか」と聞いてきた。

全く歩けないことを伝えると一瞬KJさんが困ったような表情になった。

大会の参加は難しいという空気を感じたので、事前に確認をしなかったことを今更ながらに後悔した。

さすがに無理かと諦めかけたのだが、期せずしてKJさんから「ちょっと待ってくださいね」と言って部屋の中に入っていった。

そしてすぐに20歳前後くらいの若い子たちが数名KJさんとともに出てきた。

「三浦さん、部屋の中は畳なので車いすでの対局は無理ですが、窓際の広縁が唯一の板間なので、そこで特別に椅子対局ができるようにセッティングしますね。この子たちにそこまで担いでもらうようにしますから、どこを持つようにすればいいか教えてください」

その迅速な対応に驚くとともに、その配慮に感激した。

そして無事に対局場所となる広縁に移動することができたのだ。

その後、開会式が行われ午前中は4人一組の予選リーグが行われた。

久しぶりの大会ということもあり、かなり緊張はしたが、2連勝の1位通過で午後からの本戦トーナメント進出を決めた。

思っていたより力が落ちていないことがわかり、ちょっとだけ自信が湧いてきた。

そして午後からいよいよ本戦1回戦の対局を迎えた。

対戦相手はまだ30代半ばくらいの男性で、何か勝負師としてのオーラのようなものを感じた。

将棋はかなりの激戦となった。

そして最終盤こうすれば勝っていたという手を指せず、明らかな悪手により悔しい逆転負けを喫した。

負けた後しばらく呆然としていたら、対局相手のほうから笑顔で声をかけてきた。

「最後はこっちが負けの局面でしたね」
その言葉を皮切りに感想戦が始まったのだが、勝って驕らず最後まで敗者を労るようなその対応を含めて本物の将棋指しだと感じた。

感想戦が終わり、先にその男性が席を立つと、KJさんが盤駒を片付けにきた。

「IMさん、強いでしょ?」
その言葉で初めて対戦相手の人がIMさんだということを知った。

「いや強かったです。感想戦も勉強になりました」

私がそういうとKJさんが
「IMさんは元奨励会出身ですからね。ちなみに新居浜支部の方ですよ」
と教えてくれた。

実はこの時の出会いが次に繋がっていく。

将棋による新たな縁

アマ竜王戦が終わってから半月が経った6月頭のことだった。

新居浜市政だよりの「今月のイベント欄」のところに、将棋大会の告知を見つけたのだ。

よく見ると日本将棋連盟新居浜支部主催の東予アマ将棋名人戦という名の大会だった。

地元にいながら、こんな大会が毎年行われていることなど知らなかった。

新居浜支部という文字で、真っ先に対戦したばかりのIMさんのことが頭に浮かんだ。

もしこの大会に出れば、またIMさんと対局ができるかもしれない。

その思いと新居浜での大会ということもあったので、2週間後に行われるこの大会にも出場することを決めた。

そして当日、地元の市民文化センターに行くとすごい人だかりで驚かされた。

特に子供やその父兄と思われる家族が目立ったのだが、どうやら東予アマ将棋名人戦とは別で、全国につながる小中学生向けの県大会も同時開催しているということがわかったのだ。

藤井ブームの影響を肌で感じた瞬間だった。

その人ごみのなかを車いすでかいくぐるように移動し、なんとか大会会場の部屋に着いた。

中に入ると当然ながら見知らない人ばかりだった。

とりあえず部屋の片隅で周りの様子を眺めていると、突然後方から誰かが私に声をかけてきた。

「また会いましたね」
振り返るとその声の主はIMさんだった。

「こないだはどうも、実は私、新居浜なんです」

私がそう言うと、IMさんは驚いた様子で、
「そうなんですか、だったらうちの支部に来てくださいよ。いつも週末に若手連中なども集まってるんで三浦さんにも鍛えてもらいたいなあ」
と気さくに誘ってくれた。

将棋連盟公認の支部が新居浜にあることは知っていたのだが、そもそも車いすでは難しいだろうと考えていたので、思いがけない誘いは純粋に嬉しかった。

ただそうは言っても褥瘡のこともあるので、すぐに行きますとも言えない自分もいて少しもどかしかった。

そうこうしているうちに、ついに大会が始まった。

予選はなんとか2勝1敗で2位通過し、アマ竜王戦に続いて本戦トーナメントに進出した。

IMさんも当然のごとく予選通過をしていたが、お互いに勝ち進み、なんと準決勝でまた対戦することになったのだ。

そしてまたもや激戦となり、お互い時間が切迫するなか今回はIMさんの時間切れ負けとなった。

時間が切れていなければ、おそらく私が負けていた局面だったので、何か申し訳ない気持ちになった。

IMさんもさぞ悔しかったはずだが、感想戦の終わりに笑顔で「次も頑張ってください」と声をかけてくれて、その懐の深さを感じた。

盤を挟むだけで相手の人柄なども伝わるのも将棋の魅力のひとつだ。

残念ながら、その後の決勝戦は負けてしまったが、初出場で準優勝という自分でも信じられない結果が出たことで、明らかに私の気持ちに変化があった。

決勝戦が終わった後にIMさんや他の新居浜支部の人たちから、あらためて支部への誘いを受けた。

今度は迷うことなく「こちらこそ、ぜひよろしくお願いします」と笑顔で返した。

実はこのときの将棋による出会いが、後の私にとって大きなものになっていくのだった。

株式会社白石設計&サスケグループ
サスケ業務推進事業部
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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