コラム

第37回 サスケ・アカデミーとの交流

2018年は前回の将棋を通じた出会いもあり、私にとっては公私ともに充実した年となった。

そのなかでも特筆すべきこととしては、1年通して入院をしなかったことに尽きる。
つまり7月を迎えた時点で、サスケ工房に入って初めて1年を超えての継続勤務を成し遂げることができたのである。

成し遂げるという表現は、一般的な感覚だとかなり大袈裟な表現かもしれないが、5年連続入院で毎年のように思い悩まされていた自分にとっては、一つのヤマを越えた記念すべき瞬間でもあったのだ。

その後のモニタリング面談では、Hさんと相談支援員さんへ先の将棋大会の結果のことと合わせて、私の思いの丈をたくさん話した。

「なんか目が輝いていますね。三浦さんの活き活きとしたお話しを聞くとこちらも元気をもらいます」
Hさんが笑いながらそう言うと、相談支援員さんも横で大きく頷いていた。

気がつけば1時間近く話し込んでしまっていたが、個別支援計画についても初めて目標の筆頭が体調面から業務面に逆転する形となった。

「三浦さんには、業務のこと以外でも会社行事のことなどいろんな面で事業所にも貢献してくださっているので、これからも油断せずに体調にはくれぐれも気をつけてくださいね」
Hさんのその言葉で面談は終了したのだが、自分のなかでもあらためて「油断は禁物」と言い聞かせた。

その後は、Fチームとしての作業量もますます増えてきて、チームメンバーとは侃々諤々のやりとりなどをしながら張り合いのある日々を過ごすことが出来た。

以前であれば作業に集中するあまり、ついつい休憩を怠ってしまうこともあったが、さすがに過去の痛い経験から等間隔でアラームを設定し、こまめに除圧をするようにもしていた。

プライベートのほうでは、前回のIMさんとの出会いをきっかけに将棋連盟新居浜支部の会員になり、毎月第1日曜に開催される月例会の集まりに必ず参加するようになった。

支部は畳の部屋でバリアフリーではなかったのだが、支部の若手メンバーが毎回私を担ぎ上げてくれた。

そして、壁際に背中がつく配置で車いす用のエアマットをかまし、足を延ばした形で対局をさせてもらうようになったのだ。

障がいになった以上、畳の上での対局など二度と出来ないとあきらめていただけにこの対応には感激した。

おかげで毎回支部のみんなでワイワイ言いながらの楽しいひと時を過ごすことができたのだった。

親しい人たちとの別れ

2018年の後半から2019年の初めにかけては、様々な人との別れがあった。

まず、9月にサスケバンドでベースを担当していたMKさんが、西条市の電子部品関連の会社への就職が決まり、サスケ工房を卒業することになった。

MKさんが就職活動をしていたこと自体も知らなかったので、その話を本人から聞いたときは驚いた。

過去の経歴を活かした職種内容で、しかも障がいに対しての手厚い配慮も得られるということが、そこで働こうと思った決め手になったという。

「MKさんのおかげで、サスケバンドという貴重な経験をさせてもらいました。ほんとうにありがとうございました」
私がそう言うと、MKさんも満面の笑顔で「私にとっても良い思い出になりました。こちらこそいろいろとお世話になりました」と返してくれた。

MKさんとは実は業務上での接点はなかったのだが、この2年間のバンド活動を通じた交流は私にとっても忘れられない貴重な思い出となったことは間違いない。

そしてまた10月に入ると、もう一人のバンドメンバーだったB君もが、新居浜市の介護関連の会社に就職が決まった。

彼はまだ若く体力があることと、誰に対してもフランクに接する心根の優しい青年だったので、この話を聞いたときは妙に納得した。

「三浦さん、今年の忘年会は社長と二人で頑張ってください」

最後の会話でB君からそう言われたのだが、事実上バンドは解散となり、その後の2018年の忘年会では実際に社長とギターデュオで余興をすることになったのだった。

二人のバンドメンバーの卒業は喜ばしいことではあったが、何か取り残されたような気持ちにもなった。

私自身は当時サスケ工房を卒業しようという考えはなかった。

しかし身近な人たちの就職のことで、就労継続支援A型事業所は決して最終ゴールの場所ではないのだということをあらためて考えさせられることにもなった。

そしてこの二人とはまた異なる形で、親しい人との悲しい別れの話もあった。

一人は、サスケ工房1年目の頃から親しくさせてもらっていたIさんだった。

当初から肺気腫を患っていたが非常に優秀な方で、私とは凄く気が合ったので仲良くやり取りをさせてもらっていた方だった。(以前のブログでも書かせていただいた

しかし2018年になってから体調が悪化し長期の休職をされていた。

そして11月に入ってIさんが亡くなられたということを事後で知ることになる。

そのいきさつについては衝撃的な事実もあり敢えて触れないが、あまりにも突然のことでほんとうにショックだった。

そしてもう一人、こちらも1年目の同期だったNさん(こちらも以前のブログで書かせていただいた

私が入院しているとき、Nさんは毎回のようにお見舞いに来てくれた。

ほんとうに心優しき人だった。

実は持病の糖尿病の悪化を理由に2年程前にサスケ工房は辞めていたのだが、2019年2月に入ってNさんが亡くなったとのHさんからの連絡が入った。

幸いNさんの葬儀には参列することができたのだが、ずっと寄り添いながら泣き崩れている息子さんたちの様子をみて、ほんとうに優しいお父さんだったんだなと思うと私も涙が止まらなくなった。

今振り返れば、こうした親しい人たちとの別れが続き、自分でも予期せぬ喪失感を抱いた時期だった。

サスケ・アカデミーとの交流

その時期と並行して、会社としても大きな進展があった。

少し前後するが2018年11月にサスケ・アカデミーという就労移行支援事業所を、新たに新居浜で立ち上げたのだ。

就労移行支援という言葉自体も初めて聞き、サスケ工房の就労継続支援とは何が違うのか全くわからなかった。

調べてみると、障がい者の一般企業への就職を目指すための支援を行う福祉サービスという点では同じなのだが、サスケ工房のように雇用契約を結ぶわけではなく、どちらかというと職業訓練に特化した支援内容で、就職に必要なサポートを原則2年間だけ受けられるというものだった。

そこで、2019年3月に入って新居浜のサスケグループの事業所同士での交流会を実施しようという話になったのだ。

ある日、Hさんからその件で相談があった。
「サスケ・アカデミーとの交流会で、また余興など考えてもらっていいでしょうか」

私は会社のためならと喜んで引き受けた。

そして、白石社長やサスケ・アカデミーの施設長のTYさんを始めとする職員さん全員とその利用者がゲストで参加するということになった。

実はTYさんはサスケ・アカデミーの立ち上げまではサスケ工房の職員だったのだが、趣味でサックスを吹くということを知っていたので、私は真っ先に社長とTYさんと私の共演を思いついた。

早速私のほうで社長とTYさんの調整をさせてもらい、一度本番に向けて休みの日に会場の公民館に集まって予行練習をした。

選曲は社長の好きな「糸」に決まり、ギターの伴奏にサックスの間奏ソロを交える構成にした。

そしていよいよ当日を迎えた。

まずは毎回の花見で定番化したギターイントロクイズをサスケ・アカデミーの人たちに初披露した。

嬉しかったのは、それまでずっと大人しかったサスケ・アカデミーの利用者IT君が、自分の好きな曲のイントロのときだけは目を輝かせて真っ先に手を上げ曲名をあててくれたことだ。

周りの職員さんもすごく嬉しそうだった。

会のあとには職員さんから、あんなに嬉しそうな彼の表情は見たことがないというような感想をもらったので、心からやってよかったと思った。

会の最後には、予定通り社長とTYさんとの共演で締めくくり、交流会は大成功に終わった。

サスケ工房とサスケ・アカデミーが初めて結びついた記念すべき日となったのだった。

株式会社白石設計&サスケグループ
サスケ業務推進事業部
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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