社員になりたいという私の希望は、こうして1年間の引継ぎを条件に叶う見通しとなった。
しかし、万が一その引継ぎがうまくいかない場合はどうなるのだろうという一抹の不安もあった。
実際に私の引継ぎ相手が決まるまでには少し時間がかかった。
事業所としても見込みのある人を慎重に選ぶ必要があったからだ。
そして、2020年8月のお盆明けにようやくその人選が決まった。
「三浦さんには、SB君とKHさんのお二人にこれから毎週の通所時に指導をしてもらうようにします」
Hさんからのその言葉に驚かされた。
まず引継ぎ相手が1人ではないということ、そしてKHさんはまだ入ってきて1年経ったかどうかくらいで、SB君に至ってはまだ半年くらいだったからだ。
2人とも20代で若かったが、さすがにこれまでほぼ会話をしたこともなかった。
私は恐る恐るHさんに聞いた。
「2人とも見込みがあるということですか?」
するとHさんは頷いてこう言った。
「まだ実務をするうえでは足りない面もありますが、2人とも素直で吸収力もありますので、適切な指導さえすれば必ず戦力になると見ています。ただ1年後に三浦さんの代わりをとなると、さすがに1人では厳しいと思い、2人にさせてもらいました」
Hさんからのその説明で、私としてもようやく納得できた。
そして、9月に入ってから毎週の通所時に面談室を借り切って2人へのマンツーマン指導が始まった。
2人とも発達障がいを抱えていたが物静かな性格だった。
最初の頃は多少緊張もしていたようなので、出来るだけ冗談を言いながら笑顔を引き出せることに注力した。
その甲斐もあってか徐々に打ち解けていき、そのうち2人からも積極的に質問が出るようになった。
そしてその質問内容を聞いて、2人が引継ぎ相手に選ばれた理由もわかってきた。
特にSB君からの質問は細かく、要点をついており感心した。
そのおかげで私の余計なサービス精神に火がついてしまい、ついつい聞かれてもいないことも含めて掘り下げた解説をしてしまう有様だった。
しかし、彼らにとっては案外それがよかったのかもしれず、さらに掘り下げた解説に対してもどんどん質問を被せてきた。
指導をしてから4か月が経った2020年の暮れの時点では、引継ぎがうまくいかなかったらどうなるのかという当初の不安は完全に消えていた。
「この2人ならあと半年もあれば大丈夫」
そう思いながら新年を迎えることができた。
ついに扉が開く
2021年となり、予定の引継ぎ期間としては残り半年となった。
しかし、ここにきて大きな問題が浮上した。
それは、KHさんが家庭の事情で高松事業所のほうへ転籍をしなければならなくなったのだ。
まさかの展開に一瞬私も動揺した。
もしかしたら、私の社員になる時期がずれてしまうかもしれない。
そのことの不安をHさんに正直に伝えた。
「KHさんの代わりを考えたりもしたんですが、なかなか難しい面もあるのでこのままSBさん1人のまま行こうと思います」
Hさんからのその返答で少しだけホッとした。
しかしその分、SB君が半年後に一人立ちできるようにしっかりと指導していかなければならない。
そう思い直して気を引き締めた。
それからは、毎週SB君との完全な1対1によるマンツーマン指導体制となった。
結果的にこのことはSB君にとってはよかったようで、KHさんに多少遠慮していた部分がなくなり、それこそ私に細かい質問をどんどんぶつけてくるようになった。
たまに私がうっかりしていたところを逆に指摘されるようなケースも出てきた。
これでは示しがつかないなと思いつつ、反面SB君の成長ぶりを頼もしくも感じていた。
SB君は、実は私の息子と同い年だった。
しかも元高校球児だという共通点もあった。
指導の合間に野球談議などにも花を咲かせたりしていたが、そうしているうちに私の中で情が湧いてくるのも感じていた。
それは息子に対してのものとほぼ変わらなかった。
そんな親心の気持ちも合わさり、彼のこれからの将来のことにも影響する引継ぎであることに気づいた。
4月に入ると、いよいよFチームの実務作業の一部をSB君が担当するようになった。
ぞれは最終試験的な意味合いのものでもあった。
練習と実践では大きな違いがある。
Fさんからの直接指導も入るようになり、SB君にとっては緊張感のある毎日となった。
実務をすることで、SB君の真の課題が浮き彫りになった。
毎週、Fさんから指摘をされた箇所を中心にその課題の克服に努めた。
そして、ついにそのときを迎える。
5月の最後の通所時にHさんに面談室に呼ばれた。
「SBさんのことについて、Fさんともお話しをしました」
Hさんがそう切り出し、やや緊張感が高まりつつ次の言葉を待った。
「まだ課題はありますが、予定通り引継ぎは6月までで完了とさせていただきます」
それは、正式に私が2021年7月から社員になることが決まった瞬間だった。
ついに私の扉が開いたのだ。
サスケ工房卒業、そして新たな挑戦
思えば2013年1月からサスケ工房に入ってから早8年半が経とうとしていた。
その間、決して順調なわけではなかった。
度重なる入院に悩まされ、先が見えないままなんとか必死で前を向いているうちに、気がつけばここまでたどり着いたという感じだった。
しかし、たどり着いたと言っても決してここがゴールではない。
これからが本当の始まりなのだ。
食品会社の営業と図面チェックだけしかしてこなかった私に、これからどこまでのことができるのか。
その不安は当面の間つきまとうことになるだろう。
しかし、これまでの試練のことを思えば、そのような不安はとても小さいものでもあった。
前を向くことで何かしら道が開けるということを、障がいになってからの長い歳月のなか、体で感じることが出来たからだ。
それはもしかしたら、私の自己の成長と言えるのかもしれない。
その成長が障がいによってもたらされたものだとしたら、障がいになったということは決して悪いことばかりではないのかもしれない。
あらためて人生とは不思議なものだと思わされた。
そして、サスケ工房卒業となる6月最後の通所の日を迎えた。
朝礼の最後に、Hさんから私のことについての説明があった。
ひと通りの説明が終わり、Hさんから私に最後の挨拶を求められた。
幾分緊張したが、これまでの感謝の気持ちをこめて新居浜事業所のみんなの前に出て挨拶をした。
「これまでの8年半という長い間、ほんとうにお世話になりました。ここで出会った人たちのことはこれからも忘れません。そしてその経験を活かして、いつの日か皆さんに恩返しができるよう、これからはサスケグループの社員として頑張っていきたいと思います。ほんとうにこれまでありがとうございました」
そのように伝えたのだが、最後は思わず感極まってしまった。
朝礼後は午前中の時間のなかで、すべての利用者と職員にあらためて一人一人周って挨拶をした。
なかには初めて話す人もいたが、私の勇気に刺激をもらったと言ってくれる人もいた。
そう、そうなのだ。
ここにいるみんなの希望や勇気のためにも、これから社員として活躍できるような人材にならないといけない。
その強い思いを胸に、白石設計・サスケグループの社員として新たな挑戦をするために、私は「あすへの一歩」を踏み出した。
(次回は最終章として、私の今現在のことに触れ、連載を締めくくりたいと思います)

サスケ業務推進事業部
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。









