2017年2月のことだった。
ある日、通所の日にHさんから相談があるとのことで事業所のミーティング室に呼ばれた。
「実は再来週に新居浜の特別支援学校の生徒さんたちが事業所見学に来られます。そこで実際に働いている利用者さんにお話をしてもらいたいとのことなんですが、三浦さんはお話しが上手なので出来れば引き受けてもらえればと」
何の相談なのだろうと思っていたのだが、その話を聞いて正直なところ嬉しかった。
2013年にサスケ工房に入ってからすでに5年目を迎えていたが、特別支援学校の若い人と触れ合うという経験はさすがに初めてになる。
私がサスケ工房に入ってきてから感じたことや経験したことを一度整理するいい機会にもなるし、何よりそれを伝えることでサスケ工房に興味を持ってもらい、卒業後に新たな仲間として入ってきてもらえるのであれば、事業所への多少の恩返しにもなるかもしれないと思ったのだ。
「わかりました、とりあえず当日までに話す内容をまとめて、いったん原案をHさんに提出させてもらいます」
そう言ってすぐに快諾をした。
当日は、もう一人松山在住のYSさんもオンラインで参加することになった。
YSさんはサスケ工房に入る前までは中学校の先生だったのだが、出産後に難病を患ってしまい教師を辞めざるを得なくなったという点では私と境遇は似ていた。
また在宅中心で、Fチームの実務作業を行っている点でも共通していた。
非常に真面目な方だったので今回の役目としても適任だと思った。
そして、事前にリハーサルなども行なったうえで万全の準備で当日を迎えた。
特別支援学校側の参加者は引率の先生3人、高校2年生の生徒が3人だった。
男の子2人、女の子1人だったのだが、いずれも車いすに乗っており、生まれつきの障がいがある子たちだということはすぐにわかった。
そして表情もかなり緊張しているように見えたのだが、それも無理もない。
おそらく実際に働いている現場を見ることも初めてで、しかも目の前には人相がいいとはいえない中年のおっさんが車いすに乗って待ち構えているのだから。
出来るだけ笑顔を振りまいてその緊張を解こうと冗談を言ったりもしたが、反応は微妙でむしろ私も緊張してきた。
それを察してかHさんが生徒たちに気さくに話しかけて、うまく場の空気を和らげてくれたので助かった。
その後YSさん、私の順番で自身の障がいのこと、自宅での過ごし方、作業の様子などについて1人約15分ずつお話しをした。
ただうまく伝えられたかどうかは不安だった。
しかし、後日私あてに生徒たちから届いたお礼状を見てその不安は消えるどころか、むしろやってよかったのだと思った。
なぜなら、生徒のうち1人は「卒業したらサスケ工房さんで働きたい」という言葉が添えられていたからだった。(のちに彼は本当にサスケ工房に入ることになる)
息子にも影響を与えたサスケ工房
話が前後するが高校野球を引退した息子は、その後それまでの勉強の遅れを取り戻す意味で、大学受験に向けて猛勉強をしていた。
ただ、具体的に将来何になるかについては特に決まっていなかった。
はっきりしていることは、理系の分野の中から進路を決めるということだけだった。
そしていよいよ志望校を絞り込まないといけない時期になり、ある日進路相談から帰ってきた息子から思いがけないことを聞かされる。
「父さん、建築関係の学部に決めたよ」
その言葉に一瞬驚かされたが、すぐに嬉しい気持ちに変わった。
「なんで建築なん?父さんの影響か?」
といたずらっぽく聞いてみた。
「いや関係ないよ。元々興味があったから」
と割とクールに否定されてしまったのだが、私は思わずニヤついてしまった。
確かに直接的なものではないにせよ、息子の多感な時期にずっとCADの操作をしている姿を見せ続けてきたことによる影響が皆無だとは考えにくいことだったからだ。
後で妻と二人になったときにそのことについて話したが、妻も私の見立てに同意した。
また普段在宅で作業をしているからこそ、その様子が伝わっていたということも大きい。
そう考えると、サスケ工房という存在は家族にも大きな影響を与えるものになっていることに気づいた。
年越しの初詣では、春に息子が希望している大学に合格することを精一杯願った。
そして3月になり、いよいよその結果がはっきりすることになった。
第一志望の国立大には残念ながら合格とはならなかったものの、第2志望の東京にある私立大になんとか合格することが出来たのだった。
まずは進路が決まったことに何よりも安心した。
ただ一方では、これまで18年間一緒だった息子と離れてしまうという一抹の寂しさもあった。
高校までは私の転勤や障がいの事情などによる度重なる転校や、高校時代の野球部としての試練など、息子なりに大変だったと思う。
だからこそ、東京での新しい舞台で羽ばたいてほしい。
東京へ出発する日、新居浜駅で息子を見送りながらそう願った。
世界にもつながる多様性のある会社
4月になると桜が満開となり、昨年同様に近くの公民館で花見を行うことになった。
今年も余興で私のギターイントロクイズをやることになったのだが、昨年との大きな違いは、外国人技能実習生として親会社の白石設計に所属しているベトナム人男性社員3名が特別に参加したことだった。
実はこの3人が入社される以前に、この制度の先駆け社員として勤められていたベトナム人男性がいたのだが、技能実習期間を終えてその後ベトナムに帰って起業し、そのまま現地で白石設計との連携先になっているとのことだった。
最初に入社したベトナム人が非常に優秀な人材だったということで、引き続きこの制度を活用し、新たに3人を入社させたという経緯だった。
3人は施設外就労の建物の2階の部屋で共同生活をしており、施設外就労の通所利用者とはすでに交流もあるとのことだった。
私にとってはそれまで全く接点がなかったので、そういう意味では花見で交流が持てることは楽しみだった。
席次もたまたま3人のうち2人とほぼ向かい合う形になったのでラッキーだった。
ただ、まだ来日して間もないということで、新居浜の日本語学校で勉強中ということもあり、思った以上にコミュニケーションに苦労した。
日本語で伝わらないときは、カタコトの英単語で言ってみたりと何かと苦労したが、それもよい経験になった。
3人とも目がキラキラして、私のわからない言葉に対してもまっすぐ向きあおうとしてくれている姿が印象的な好青年たちだった。
その後の余興のギターイントロクイズでは、日本の有名曲に加えてベトナムの人にもわかるようなクラシックの有名曲なども入れてみたのだが、あいにく当ててもらうことはできなかった。
しかし、当時アメリカ大統領になったばかりのトランプ大統領に変装し「アメリカ・ファースト!!」と当時のはやり言葉を連呼したときには爆笑してくれたので、その点においては心が通じ合えた気になったものだった。
私の余興が終わると、今度は3人から招待してもらったことのお礼として、ベトナム国家を斉唱してもらった。
思いがけない展開に、利用者全員が割れんばかりの大きな拍手を送った。
そして、花見の最後には公民館の入り口のところで、3人含めて全員で記念写真を撮った。
その時の写真を今振り返ってみていると、ほんとうにみんないい笑顔だったなと思う。
※余談になるが、白石設計における外国人雇用は今現在でも引き続き行われており、障がい者に限らない多様性のある企業文化が脈々と受け継がれている。

サスケ業務推進事業部
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。