コラム

第6回 社会との繋がりがない虚しさ

バリアフリーのマンション

2009年4月、人生において2回目となる新居浜での生活が始まった。

当初は、実家で両親と一緒に暮らすことも考えていたが、私が生まれた年に建った実家は、さすがに車いすで生活できるような造りではなかった。

そのため、実家から車で15分くらいの距離で、新居浜駅から徒歩10分くらいに位置する3LDKのマンションの一室に、妻と息子の3人で住むことになった。

このマンションは車いすでも問題のないバリアフリー環境であるということで選んだ。
室内が玄関を含めてすべて段差がないという点はもちろん、マンション1階のエントランス内では、入口の自動ドアからエレベーターにまで達するスロープも完備されていた。

強いて難点をあげるとすればトイレがやや狭いことで、車いすでトイレの中まで入りこむスペースがないため、便座の手前に中間の役目としての丸椅子を置き、二段階の移乗をするやり方でなんとかその問題をクリアさせた。

新しく生活していくなかで、このように気づかないレベルで少しの手間をかけないといけないことは他にもたくさん出てきた。
しかし、その「少しの手間」をかけることで障がいを乗り越えられると思えば、むしろ普通の生活に近づけられることの喜びのほうが上回っていた。

また、5年生にあがるという微妙なタイミングで地元の小学校に転校することになった息子についても、登校初日にすぐに仲良くなった友達をマンションに連れてきたのでひとまず安心したとともに、子どもの対応力に感心させられたものだった。

すっかり関東の喋り方になっていた息子と、新居浜弁を話す友達の会話は新鮮だった。
その新居浜弁を聞いているうちに、私が息子と同じ年頃に友達と毎日のように遊んでいた頃を思い出したりもした。
これまでもお盆や正月などに毎年帰省していたにもかかわらず、なぜか今までにないノスタルジーを感じてしまい、その記憶のなかにある海岸や山などのかつての場所を、今の体で確認しに行きたい衝動に駆られていた。

自由な時間

新居浜での生活が落ち着いた5月頃から、地元の病院で引き続き体調維持の目的で週2回ペースでリハビリ通院を始めた。

また生活のための収入については、当面は失業手当と傷病手当、そして障害年金などもあり仕事を急いで探す必要はなかった。
というよりも、新卒以降ずっと働き詰めだった自分へのご褒美のつもりで、この束の間の自由な時間を満喫しようという心境になっていた。

毎日が、サラリーマン時代には考えられなかった贅沢な余暇の時間に当てられることができた。
特に学生の頃からの趣味だった将棋やギター、そして群馬での入院以来習慣となっていた読書については、全てベッドの上で完結するものということもあり一日中外に出なくても全く苦にならなかった。

いっそのことこのままずっとこういう生活が続けばいいなどとまで考えたものだった。

その自由な時間のなかで、地元の友人や知人にも徐々に連絡を取り、私が障がいになったことを会って伝えた。
あるときには、私が愛媛に戻ってきたことを知った昔の上司や同僚から携帯で連絡が入り、わざわざ自宅にまで来てもらったこともあった。
みな、私が障がいになったことについては最初の段階では驚いてはいたが、特に障がいのことを意識しない昔からの接し方が逆に嬉しかった。

そんな生活を過ごしているうちに夏になり、当時リハビリを担当していた作業療法士の方と、高校野球の話題で盛り上がったりしていた。
仕事をしていないため、毎日テレビ中継されていた高校野球を今までにないくらいたっぷりと観ることができたのだ。
本当に贅沢な時間だった。

しかし一方で、心のどこかに一種の罪悪感のようなものや、楽しい時間が終わったあとに襲ってくる例えようのない虚しさのようなものも、かすかに感じ始めてもいた。

社会との繋がりがない虚しさ

その虚しさのようなものが日に日に大きくなってきた。

例えばインターネット対局などで将棋に勝っても負けても、特に嬉しいわけでも悔しいわけでもなく、ただ惰性的にやっている状態が続き、終わった後は何とも言えない徒労感、虚しさに襲われていた。
読書中でもその虚しさが頭をよぎり始め、何度も読み直すなど集中できなくなってきた。

要するに、何をやっても楽しくないのだ。

好きなことをしているのになぜだろう、と毎日のように自問自答した。

 
そして、それが社会との繋がりがないことによる虚しさだと気づいた。

 
あれだけ自由な時間がずっと続けばいいと思っていた感情が、わずか数か月でその虚しさの感情に押しのけられてしまったのだ。

会社での送別会のときに、「第2の人生をスタートさせる」と言い切ったが、その第2の人生とは何のことを指して言ったのか、もはや本人ですら見失っている状況だった。
ただ漠然と障がいになった生活を第2の人生と表現していただけで、何の目標もなかったのだ。

当時の私は完全に障がいに甘えてしまっていた。

ただ目の前のしたいことだけをしていたに過ぎない。

その結果がもたらす虚しさだったのだ。

完全な思考停止状態のなか、とりあえず今の虚しさを紛らわすための何かを探し始めた。

 
そしてお盆明けのある日、ハローワークで失業手当の受給延長に繋がる障がい者のための職業訓練を紹介された。

特に具体的な目標がないなか、毎日そこに通うというルーチンがその虚しさを解消してくれるのではという思いと、不得手だったPCスキルを学ぶことで将来的に何かしら役に立つだろうという短絡的な理由で、10月から12月までの3か月間の職業訓練を受けることにした。

そこで人生において初めて、私とは異なる障がいの人たちと触れ合うことになるのである。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと

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