コラム

第9回 障がいになったことの意味

恩師からの電話


再び褥瘡が見つかって間もなくしてから、私と妻は横浜に向かうことになった。

大学時代の恩師、松岡紀雄教授が定年退職を迎えられることになり、松岡ゼミOBとして、「松岡紀雄教授の最終講義―松下幸之助から学びて、いま思う日本の行く末」と銘打った大々的な講演会と19期に及ぶ歴代のゼミ生が一同に会するOB会に参加するためだった。

松岡先生は同じ愛媛出身であり、松下電器(現パナソニック)で晩年の松下幸之助から薫陶を受け、国際PHP研究所代表などの要職を経て、その後大学教授に転身され「企業市民」「企業フィランソロピー」の考え方を提唱された偉大な恩師だった。

しかし、3か月前にその案内が来た時は正直なところ戸惑った。
なぜなら、松岡先生やOBの人たちには私が障がいになったことなど全く伝えていなかったからだった。

また、社会人になってからは、ほとんどOB会自体にも参加していなかったので、多少気が引ける点もあった。

幹事役のS君を通じて、松岡先生に私の障がいのことを近況として伝えてもらうと、後日またS君から電話がかかってきた。

「先生に三浦のことを報告すると、すごく心配してたよ。体調のこともあるから当日の参加については無理は言えないけど、ひとつだけ先生からのお願いがあって」

一瞬何のことだろうと思ったが、続けてS君がこう言った。
「講演会の記念冊子にOB生の寄稿文を掲載するんだけど、三浦にはゼミの思い出とかではなく、自身の障がいのことで人に伝えられることがあれば書いてほしいって」

その依頼を聞いて、障がいになってからの心境を人に伝えるということをそれまで全く意識していなかったことに気づいた。
そして、自分のためにも現時点での心境を整理するよい機会なのかもしれないと思い直した。

すぐに障がいになってからのことを包み隠さず書き上げ、S君にメールで送った。


その後、数日経ってから見知らぬ電話番号から着信があった。

恐る恐る出ると、なんと松岡先生からだった。

ひととおり私の障がいになった経緯を説明すると、先生の口から思いがけない言葉が発せられた。

「この前寄せてくれた文章を見て、私はあなたの心とその澄み切った文章に涙が止まらなかった」
そして、2月のOB会でぜひ会いたいとまで言っていただいたのだ。

優秀なゼミ生が多いなか、私は決して目立つような学生ではなかった。
むしろ出来の悪い学生だったので、この展開はにわかには信じられなかった。

障がいになったこと自体はつらいことではあったが、その障がいのことを伝えることで人の心を響かせられるのだということをこのとき初めて実感した。

松岡先生からの直々の言葉によって背中を押された私は、妻と一緒に横浜に行くことを決めたのだった。


障がいになったことの意味


講演会当日、妻とともに会場に着くと、すでにたくさんの方が来場されていた。

受付に行くと、同期のI君が私に気づいて声をかけてきた。

「おおー、三浦、全然変わってないなあ」
にこやかに笑いながら、十数年ぶりに会う私に手を差し伸べてきてくれた。

I君は同期のなかでも最も優秀で早くから広報のコンサルタントとして起業していた。

車いす姿の私を初めて見たにもかかわらず、変わっていないという言い方をしてくれたことが率直に嬉しかった。
おかげで、車いすの姿を見せることへの引け目が少し和らいだ。

しばらくお互いの近況を話していると、幹事のS君が私に気づき同様に声をかけてきた。
そして、松岡先生がいる場所に案内してくれた。

松岡先生は神奈川県知事を始めとした多くの来賓のかたへの対応で忙しい状況だった。
しかし私に気づくと、真っ先に近づいてきて大きく両手を差し伸べてきてくれた。

「三浦君、そして奥さんも遠いのにほんとうによく来てくれました。ありがとう」
そう言いながら私の手を強くギュッと握りしめた。

私がそのときどう返したかははっきり覚えていないが、久しぶりに会う恩師の前でかなり緊張していたことだけは間違いなかった。


そして、その後会場は一般の方を含めて多くの方が集まり、松岡先生の1時間半に亘る最終講義と称した講演会が始まった。

柔らかい語り口で、ユーモアを交えながらのわかりやすい講義は当時と変わらず健在だった。
特に松下幸之助さんとのエピソードなどは学生当時では知り得なかった話も多く、興味深いものがあった。

松岡先生が松下幸之助さんから直接学んだことのひとつとして、

「自分の寿命を超えて、日本と世界、人類の行く末を考え、自らの思いを人々に訴えること」
という言葉を挙げられていた。

経営者でありながら政治家以上に日本の社会の未来を憂い、そのために社会に貢献できることを考え続けてきた松下幸之助さんの松下イズムを、松岡先生のなかで脈々と引き継がれているのだということを、この講演を通じてあらためて感じた。

その視点は、決して国という大きなレベルだけにとどまらず、私のようなちっぽけな存在に対しても同じ眼差しを向けられていることに気づく。

私が松岡先生から学んだことは、紛れもなくその他者を思う利他の精神そのものだった。

学生のときにも企業ボランティア、企業の社会貢献のことなどを学んだが、その後社会人となり、知らず知らずのうちに営業のなかでその精神性はどこかに吹き飛んでしまっていた。

それが皮肉にも、障がいになった身で松岡先生と再会したことによって、当時の頃の学びを思い起こすことができたのだ。

松岡先生は講演会最後の挨拶のときにも、大勢の聴講者の前で私のことについて触れるのを忘れなかった。

「三浦君は、数年前に突然脊髄の病気になり、現在車いすの生活をされています。今日は愛媛から奥さんとかけつけてくれました。今回の記念冊子には三浦君にもご自身の障がいのことについての心境を寄せてもらっていますが、私はほんとうに感動しました。ぜひ皆さんにも読んでいただきたい」

最後にまさか、単なるOBの一人に過ぎない私のことについて触れられるなど夢にも思わなかった。

その後のOB会でも最後まで松岡先生には気にかけていただき、また久しぶりに対面したOBの人たちとの交流を含めて、妻とともに夢のなかにいるようなひとときを過ごすことができた。

帰りの新幹線のなかでは、窓外をぼんやり眺めながら、障がいになったことの意味をずっと考え続けていた。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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