焦りの再スタート
2013年10月から、約3か月ぶりにサスケ工房に復帰をすることができた。
Hさんとの話し合いのなかで、毎週木曜の午前中のみ通所で他の日は完全在宅という新たな勤務形態になったため、初日の火曜は初めて朝から在宅として作業をすることになった。
久しぶりということもあり、嬉しさと緊張が入り混じりながら、メールで今から作業開始しますという報告を入れた。
その後CADソフトを起動して前の復習をしてみるが、それまで覚えていたはずのことがすっかり記憶から飛んでいることに気づく。
若い頃の感覚とのギャップを感じ、自分の記憶力の衰えを認めざるを得なかった。
復帰直前まで在宅は気楽でいいとも思っていたのだが、むしろ徐々に焦りが出てきて、初日早々にひとりで悶々としてしまった。
ただ事業所として実務はまだ始まってはおらず、その点では救いがあった。
親会社の白石設計から比較的規模の小さい物件の実事例データを基に、来るべき実務に向けて擬似的な作図練習や各図面の読み取りなどの練習をすることになっていた。
鉄工所で柱や梁などの鉄骨パーツを制作するためには、それぞれのパーツの設計図のようなものを作図する必要がある。
白石設計では、その鉄工所にとって必要な工作図と言われる各パーツの詳細図を作図するのが主な業務となっていた。
そのためには一般図と呼ばれる建物全体の構造図面や詳細情報を読み取る必要があった。
非常に専門的でハードルが高い印象を抱いたものだったが、小規模の物件でその基本を学ぶことで、最終的には大型物件に対しても取り組めるようになると言われていたのだ。
私が入院で休んでいた間に、他のみんなはどれだけ進んでいるのかも気になった。
またその間、新しく入ってきた人も何人かいるとも聞いていた。
そんなことを考えていたら、さらに焦りが出てきた。
なんとか遅れを取り戻そうと、初日から休憩も入れずにパソコン画面に張り付いていた。
「一回でも横になったの?除圧せんと、また同じこと繰り返すよ」
私のそんな様子を見かねた妻が注意をしてきた。
ハッと我に返った。
頭でわかっているつもりでも実際の行動に移せていなかったら、それは結局わかっていないに等しい。
喉元を過ぎるとすぐに自己管理の意識が飛んでしまうのが当時の私の課題だった。
そのような様子での復帰となったのだが、木曜の通所までのこの2日間は、初めてのフル在宅ということも相まって、異常に長い時間に感じられた。
三浦マニュアル
復帰してから3日目となる木曜の朝は久々にサスケのみんなに会うということもあり、さすがに少し緊張していた。
妻に車で送ってもらった後、ドキドキしながら事業所のなかに入っていった。
「あ、三浦さん、久しぶりです」
真っ先にAさんが気づいてくれて声をかけてくれた。
その声をきっかけに、他のメンバーからも次々と「元気そうでよかった」などの嬉しい言葉をかけてもらえた。
おかげで緊張も解け、一瞬にして前の感覚がよみがえった。
初めて見かけるような人も何人かいて、目が合った人には会釈をした。
Hさんがその様子を察して、新しくサスケ工房の利用者となった人たちを一通り紹介してくれた。
すでに事業所の利用者の数は18人にまで達していた。
初めて会う利用者の一人にIさんという方がいた。
鼻のところに携帯用の酸素ボンベの管をされていたので、肺の病気を患っているということはすぐにわかった。
年齢は私より7つほど上だったが、お互いすぐに気が合った。
Iさんは後から入ってきたにもかかわらず非常に熱心で、職業指導員のTさんに誰よりも積極的に質問されている様子が印象に残った。
その一方で、より専門的な内容になったことで、人によっては図面の理解が思うように進まない人も出てきており、また人数が増えたこともあって、TさんやKさんも指導に追われている様子だった。
午前中の2時間はあっという間だったが、帰り際にKさんに呼び止められた。
「三浦さん、もしよかったら今やっている題材をもとに、ご自身の復習的なことも兼ねて、マニュアル作りをしてみませんか」
まさかとは思ったがよくよく話を聞くと、TさんやKさんの視点でそういうマニュアルを作っても、初学者目線のものとして細やかな点までは思いが至らないことも多いということだった。
そこで、在宅で練習した内容について毎日ワードでスクショ画面などを貼り付け作業工程をわかりやすくまとめていた私に対して、利用者視点にピッタリのマニュアルができるのではという発想が浮かんだというのだ。
同様のことをAさんにも依頼されているらしく、図面は人によって多少プロセスが異なったりするので、それぞれの色が出たマニュアルが2パターンあってもいいということだった。
私はすぐに納得し、Kさんにこう言った。
「わかりました。自分のブランクを埋める頭のリハビリにもなるので、しばらくマニュアル作りに取り組んでみます」
これが後に、新しく入った利用者にも活用してもらえることになる「三浦マニュアル」の起点となったのだった。
サスケ工房が取り持つ縁
復帰してから1か月が経ち、11月に入ってからは完全に入院前のカンを取り戻していた。
強いて不満を挙げるとすれば、やはり週に1回しか通所をしないため、人との会話の機会がすっかり減ったことだった。
その反動で通所のときはよくしゃべった。
元々仲の良かったAさん、Mさん、Nさんに加えて、Iさんともよく話すようになったので、毎週の木曜が待ち遠しくなっていた。
そして12月に入りまた新たに一人、当時の私にとって衝撃的な人との出会いがあった。
ある日の朝、いつものように通所をすると朝礼でHさんからこの後、11月から松山の自宅で在宅利用をしているというAMさんが来所するという話があった。
四肢麻痺で完全に体が動かない重度障がいのため、代わりに職員さんが毎週松山の自宅へ訪問しているという話は聞いていた。
いったいどんな人なんだろうと思っていただけに、今日たまたま通所をしたタイミングでAMさんと会えることは幸運だった。
そして、お昼前にAMさんは電動車いすに乗って付き添いの女性とともに部屋に入ってきた。
手足は全く動かない様子だったが、それは私の想像を超えていた。
というより、これまで数々の障がいを抱えた人と接してきたが、間違いなく私が出会ったなかで最も重い障がいだった。
HさんとKさんとはすっかり親しくなっている様子で、しばらく談笑しているうちにやがてすぐにお昼になった。
午後は自宅に戻らないといけなくなったが、まだ挨拶くらいしかしていなかったので、思い切って声をかけた。
「私はお昼でもう帰らないといけないのですが、ちょっとだけお話ししましょうよ」
そうすると、AMさんはニッコリと笑ってうなづいた。
私もそうだが、おそらくAMさんも初めて会う私に対して少し緊張していたかもしれない。
そして、その後お互いの障がいになったいきさつについて教えあった。
AMさんは私より2つ下の年齢だったが、約6年前に交通事故が原因で四肢麻痺の障がいになったとのことだった。
お互いに人生の途中から急転直下の人生になったという点では共通していた。
その日初めて会話をしたにもかかわらず、すでに何か同士のような感覚が生まれていた。
CADの操作をどうしているのか気になったので聞いてみると、口にくわえた管から呼気で操作できる機器を使っているとのことだった。
話を聞いているうちに私の障がいが全く軽いもののようにさえ思えてきた。
「事故当時はほんとうに絶望していたけど、色んな人に支えられてなんとかここまでこれたんよ。感謝しかない」
AMさんのその言葉を聞いてジーンときた。
サスケ工房はそういう人生を抱えた人たちとの出会い、縁の場であることをあらためて感じたとともに、もっと自分も頑張らないといけないと強く思った。
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。