コラム

第25回 職員にもなれるA型事業所

1か月の自宅療養

サスケ工房に入ってから2回目となる入院だったが、2014年8月2日に無事に退院することができた。

Hさんと連絡を取り、しばらくは自宅療養をして様子を見る旨を伝え、特に問題がなければ9月頭から復帰するということになった。

過去2回の退院のときもそうだったが、久しぶりの我が家での生活はこのうえない喜びだった。
長い入院を経験すると、それまで当たり前だった環境がそうではないということに気づかされるのである。

ほぼ休みのない部活に明けくれていた息子とは、入院前以来の対面となった。

「父さん、これからピッチャーを目指すことにしたから」
全く想像もしていなかった息子からの言葉に驚いた。

聞けば、3年生引退後の新チームは2年生5人、1年生7人での計12人と極端に少なくなってしまったため、ピッチャーが先輩の1人しかいないという状況だったのだ。

ただ、中学時代からピッチャー経験もない息子が、控え投手とはいえ務まるものなのかは不安だった。

しかし、そんな親の心配もよそに息子の目は活き活きしていた。
「監督からも肩は強いと言ってくれたし、カーブも結構曲がるようになったしね」

子どものころから社長になりたいだのなんだかんだと、親の想像を軽く越えて発言する傾向があったが、その向こう見ずな感じは私とは似ても似つかなかった。

「まあ、やれるだけやってみたらいいけど、ピッチャーはそんなに甘くないぞ」
そういうのが精いっぱいだった。

しかし、口でこそあまり表現しなかったが、実は嬉しい気持ちもあった。
近いうちに練習試合などで投げるという話も聞いたが、さすがに自宅療養中に見にいくわけにはいかない。

仕事に復帰したあとには、どこかで息子が投げている姿をこっそり見に行きたい。
そのためにもこの1か月はしっかり体調を整えて、万全の体調管理をしなければと気を引き締めていた。

8月上旬はちょうど甲子園の全国大会なども始まり、自宅療養中は毎日ベッド上で高校野球観戦をし、夜は趣味の将棋をインターネットで指すという日々を過ごした。

そのほか日常生活において必要最低限のこと以外は車いすに乗ることも控え、妻には毎日の創部の点検と下のケアをしてもらった。
その甲斐もあって、なんとか仕事に復帰する自信がついた。

8月最終週にHさんに連絡をし、予定通り9月から復帰することを伝えた。

進化を続けるサスケ工房

そしていよいよ仕事に復帰をしてから初めての通所日となる9月4日の木曜日を迎えた。
久しぶりに顔を出すということもあり、緊張と照れくささがあったのは、昨年とまるで同じだった。

Hさんの話によると、私の休職中に利用者が7~8人も増えていて、また職員も今年2人目となる男性のONさんがちょうどこの9月から加わったとのことだった。

一気に人が増えたこともあり、最初は私としてもやや戸惑いがあった。

さらに驚いたのは、1階の事業所が増床され、新たな部屋が造られていたことだ。
定員の20人を優に超えてきたため、従来のフロアスペースでは収容しきれないという問題が出てきたためということだった。

まさに浦島太郎状態の変貌ぶりだったが、とりあえず新しい人に対して一通り簡単に挨拶をした。

職員のONさんは30代前半で体格もよく、非常に声の通るしっかりした印象の人だった。
前職では配管などの設計図面に携わっていたということで、サスケ工房にとっても頼もしい人が入ってきたと感じた。

その他新しく加わった利用者をすべて触れるわけにはいかないが、後に私の発案で白石社長をボーカルに立てて結成した「サスケバンド」のバンドメンバーとなるB君なども、この時期に加わっていた。

まだ20代で若くパッと見た感じはどこに障がいがあるのかもわからない感じだった。
当時はどちらかというと私と同世代か、それよりも上の年齢の人が多かったのである意味新鮮だった。

他にも元美大出身で、周りから「画伯」というニックネームで呼ばれていたWさんともよく会話をした。
非常にユーモアセンスがあり、将棋や囲碁なども含めて多趣味で様々なことに造詣が深いという印象だった。

あとは男性中心になりかけていたなかに、女性としては6人目となる50代半ばのFMさんも加わっていた。
非常に社交的で明るく、後に「サスケ工房のお母さん」と呼ばれるような存在となった人だ。

そのようにひととおりの利用者との挨拶を終えたのだが、その過程でさらに大きな事実を知ることになった。
最後に挨拶をしたHRさんは実は新居浜の利用者でも職員でもなかったのだ。

11月に3つ目の事業所として開所予定の徳島県の板野事業所の職員だった。
今は研修のため毎日新居浜事業所に来ていて、私が作成したマニュアルなども参考にしているとのことだった。

ここまできてようやく、社長がお見舞いで言っていたことをふと思い出した。

愛媛以外でも事業所を出すと言っていたのは、この板野事業所のことだったのだ。

サスケ工房が刻一刻と進化していくのを痛感させられた瞬間だった。

職員にもなれるA型事業所

その後、2週間くらいで入院によるブランクを取り戻すための復習を終えた。

事業所の作業内容としては、依然として仮設部材の入力が作業のメインとなっていたが、Tさんからは、翌年からはもっとレベルの高い作業に移行していくという説明もあった。

そのため、これから何か月かかけて、その新しい練習も実務の合間に行っていくことになった。

最初に聞いた当時はどんなことをしないといけないのかと不安を感じたが、今にして思えば、後に施設外業務の中核作業となった「取り合いチェック」と呼ばれる部材同士の寸法照合チェックの始まりだった。

当然、図面の読み取り理解がなければチェック自体が正確に出来ない点があったため、Tさんとしてもそのためのマニュアル作りを急ぐ必要があった。

白石設計で作業提出済みの物件を練習題材にし、まずはTさんがオンライン等で説明をした。
そのときは2事業所目としてそれなりの人数となっていた西条事業所の利用者も参加した。

当然ながら各利用者からありとあらゆる質問が飛び交い、とても週1回のタイミングでは対応しきれない状況となった。
在宅だったため、合同のオンライン説明以外でTさんと他の利用者がどんなやりとりをしていたのかはかなり気になるところだった。

そんな私の不安を察してか、当時新居浜事業所の中で最も熱心な利用者だったIさんが、昨日はTさんにこんな質問をしたということを、スカイプ通話でわざわざ教えてくれた。

そして、徐々にその未知なる「取り合いチェック」がやりがいのある面白い作業であることに気づいていくのである。

「このチェックは白石設計としてもたいへん重要で貢献度は高いので皆さん頑張って習得してください」
Tさんが一度オンラインで全利用者にそう説明したのだが、俄然やる気が出てきたのを覚えている。

そんな様子のなか11月に入るとさらに衝撃的な話があった。

サスケ工房立ち上げ当初からの利用者である30代女性のAさんが、パートの事務職員となったのだ。

もともとPCスキルに長けており、CADにおいても操作に関しては一番速く、私とともに作業マニュアルなどの作成にも関わっていたので、利用者から職員になったことについては納得だった。

ただ、筋無力症という難病を患っていることや、いよいよこれから本格的な図面業務が始まるというこのタイミングであえて福祉サービスを返上し、また事務職員を選択したということについてはやや意外だった。

しかし、Aさんのこのときの勇気ある決断は、サスケで頑張れば職員になれるという希望とインパクトを我々利用者に与えることになったのは間違いない。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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