コラム

第26回 理想的な職場環境

もどかしい気持ち

季節はすっかり秋が深まっていたが、仕事に復帰してから完全にそのカンを取り戻すことができた。

取り合いチェックという新しい実務に向けての理解も日に日に進み、ようやく心のゆとりも生まれていた。

ふと、息子の高校入学後まだ一度も足を運べていない野球の練習試合を見に行きたいと思い立った。

それまで妻だけが息子の同級生の父兄などと仲良くなっていたのだが、どこも夫婦揃っていつも顔を出しているというので、早くその輪に加わりたいという気持ちもあった。

また12月に入ると練習試合そのものが来春までなくなるというので、そのことも含めて妻に見に行っていいかを相談した。

「今度の日曜は遠征じゃないし、保護者もみんな集まるからちょうどいいかも」
妻からもそう言ってもらえたので嬉しかった。

しかし一方では、熱心な父兄ばかりのなかで遅ればせながら初めて顔を出すということにやや引け目を感じてもいた。
それに加えて息子の父親が障がい者だということで、その同級生が私を目にしたときのことや、周りの父兄にどう気を使われてしまうのだろうかと想像し、「やっぱりやめよかな」などと少し弱気になったりもしていた。

行く決め手となったのは、前日の日に息子から告げられた次の言葉だった。
「明日の練習試合やけど、2試合目に初めて先発で投げることになったから」

実は、息子は3年生引退後の新チーム結成以降に控え投手のひとりとしてスタートをしたのだが、8月に行われていた新人戦についてはそもそもまだ経験がなさすぎるという点もあり、エースの先輩と野手兼任の控え投手の先輩二人の登板までだった。

またその後に行われた秋の地区予選については、大会2週間前くらいに朝練を遅刻してしまい、そのバツとしてずっと草むしりをさせられるという状況だったので、大会はおろか練習試合でも投げる機会はなかったのだ。

息子は息子なりに、ずっともがいていることも知っていたので、いろんな意味で直接応援したいという気持ちが強まったのだ。

できればエースの先輩が投げる1試合目から見に行きたかったのだが、妻から長時間座りっ放しになるのはよくないと諭されて、場所も近いということもあり息子が投げる午後の2試合目から出かけることにした。

新たな交流

当日になり相手チームの高校に着くと、すでに2試合目に向けて各選手がグラウンドでウォームアップをしていた。

地面が少しぼこぼこしていたので、妻に後ろから車いすを押してもらったのだが、その移動中に私に気づいた選手たちが次から次へと帽子を取って大きな声で「こんにちは」と挨拶をしてきた。

それは礼儀を重んじる高校野球としては特段珍しい様子ではないのだが、私にはかなり胸に響くものがあった。
こんな気持ちのよい挨拶を受けたのは初めてかもしれないと思いながら、清々しい気持ちで挨拶を返した。

そしてその後バックネット裏まで行くと応援にかけつけていた父兄がすでに10数人はいたのだが、ひとりの男親が小走りで寄ってきてくれた。

「三浦さん、初めまして保護者代表のRです。車いすだったら、この辺で奥さんと一緒に見てもろたらええかも」
非常に気さくなその人はキャプテンをしている先輩のお父さんだった。

他の父兄ともその後挨拶を交わしたのだが、どの人もほんとうに気さくな人ばかりだった。

おかげで前日までの妙な不安は何だったのだろうかと思うくらいすぐに打ち解けることができたのだが、その後さらに驚くことがあった。

先ほどのRさんの奥さんは、なんと中学時代同じクラスにもなったことがある私の同級生だったのだ。
しかもRさんも中学時代他校で同じバレー部で、当時何度も対戦をしていて関わりがあったのだ。

「えー、あの三浦君?そういえばなんとなく面影あるけど、お互いだいぶ老けたね」
Rさんはそう言って笑わせた。

また別の父兄のなかには、なんと夫婦二人とも私の高校のときの同級生であることも判明した。
さすがに当時直接の接点はなかったのだが、共通の友人などの話で盛り上がった。

これらの偶然の出会いの甲斐もあって、わずかの時間ですっかり溶け込むことができた。
障がいのことも変に気を使わずにストレートに聞いてくれたので、構えずに説明することもできた。

そんな話で盛り上がっているうちに、いよいよ2試合目の練習試合が始まった。

マウンド上に立つ息子の姿を始めて見たのだが、ユニフォームのせいか普段家で見ている息子とは思えない雰囲気があった。

ピッチングの内容はとても褒められたものではなく、初回からフォアボールを連発するなど制球に苦しんでいた。
幾度となく監督から息子へ容赦ない怒号が浴びせられていた。

結局5イニング投げて6失点という息子にとってはほろ苦いデビューとなった。
息子にとっては悔いの残る日だったかもしれないが、いい経験になったのは間違いない。

そして、私にとってもこの日はいろんな意味で特別なものになった。

理想的な職場環境

年が変わり、サスケ工房で3年目となる2015年に入った。

仮設チェックからいよいよ取り合いチェックに移行することになり、この数か月間取り組んだ練習の成果をいよいよ見せる段階になった。

ただ利用者のなかには、まだ実務に入るには自信のない人も半数くらいはいたので、とりあえず選抜されたメンバーで作業の割り振りが行われた。

やはり東京都内の大型物件が多く、当時築地市場から移転することになった豊洲新市場など話題の物件までが降りてきたのにはびっくりした。

白石設計が非常に強力な取引先を握っていることの証左だったが、非常にやりがいを感じたことを覚えている。

仮設チェックに比べると斜め計算などの頻度も多く、場合によっては電卓を使用することも出てきて、それなりに時間がかかる作業で完璧にチェックをこなすことは難しかった。

しかし、指導職員のTさんの手にかかればあっという間の早業だった。
週1回のオンライン説明会でチェックの手順についてのデモンストレーションを見せてくれたときはその早さに驚いたものだった。

当初は実務に参加した利用者全員分を、Tさんひとりで全て完璧に修正してから提出していたので、もっと自分たちの精度を上げていかないといけないというようなことをIさんとよく話し合ったりした。

今にして思えば、ようやくA型事業所らしい雰囲気になってきた時期とも言える。

ただ一方では、開所当初からのアットホームな雰囲気も失ってはいなかった。

例えば利用者の誕生日の日には、朝礼時に全員でハッピーバースデーを歌いお祝いをするという儀式があった。
社長からの商品券のプレゼントなどもあり本人にとってはとても嬉しいことだったが、反面みんなに注目をされることで居心地が悪そうにしている利用者がいたりして、それも含めてほんとうに楽しい時間だった。

また3月に入ると若手女性職員のSHさんと20代のB君たちが中心となって花見を企画した。
すぐ近くの公民館に桜が咲いていて、食事は公民館の部屋を借りてみんなでワイワイと盛り上がった。

SHさんやB君のアイデアで、スマホから流れてくる曲名を当てた人に景品を配るという昔ながらのイントロクイズの余興などもあった。
(実はこのときのことがヒントになり、後に私が毎回各余興でギターを披露することに発展し、またそこから繋がって社長との新たな接点も生まれることになる)

というようなこともあり、3年目に入ったサスケ工房はすでに硬軟織り交ぜた理想的な職場環境になっていて、利用者にとって働きがいのある事業所となっていた。

就労移行支援 サスケ・アカデミー本部
本部広報/職業指導員
三浦秀章
HIDEAKI MIURA

36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。

41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。

これからの目標・夢

障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。

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